2
今回は間取り付です!
「これ、は」
「見てのとおり、プールだ。いいだろ、二十メートルはある。しかも温水だぞ」
池袋から車で十分。ここは雑司ヶ谷だ。
池袋駅から見て東南の方向。つまりは山手線の円内というわけで、掛け値なし都心の真っただ中である。
けれど太い通りもなく、というより全体にごちゃごちゃと細い道でできた、昔ながらのちょっと素朴な住宅地。
立地からして家賃相場は高めなのだが、鬼子母神とその参道に代表されるレトロモダンな雰囲気に惹かれて、指名してくるユーザーもいる。
いまでは、東京メトロ副都心線雑司ヶ谷駅ができて、便利さも格段にアップしたが、以前は都電荒川線しかなく、そんなところもレトロなプチ不便さをかもしだしていた。
そんな雑司ヶ谷にある、ここはコンクリート打ちっぱなしのモダンなマンション。
その地下に設けられた二十メートル、1レーンだけのプールの前に、源大朗、レイチェル、それにキアが立っている。
水面がわずかに波打ち、キラキラと青く光を反射させているのは、プール内の青い塗装だけではなく、ドライエリアに設けられたガラス窓が映す青空のせいだ。
木々の枝もそよいで、水面に影をゆらめかせる。
つまりこのプールの上は、マンションの裏庭なのだ。
「ここって、どうなっているんですか」
レイチェルの問いには、
「一、二階でメゾネットになってる。玄関ホールから、エレベーターで降りて来れる。さっきみたいに。それと、直接庭へ上る階段もあるけど」
間取り図のコピーを見せながら、キアが指さす。
そのとおり、部屋へ上がるメインの階段の横にはエレベーターがあって、レイチェルの車いすも余裕で使える。
エレベーターは二階まで通じていた。
「いえ、あの……!」
「ほらぁ、照明の照度も変えられるから、パキッ、と明るいのもできるし、ムーディーな間接照明にもなるんだぞ」
壁のロータリースイッチを操作しながら、源大朗。
ふつうの部屋のように明るくなった、と思うと、天井と壁の際だけがボゥッ、と光り、影を強くする。
プールの水も深さや密度を増したように見えた。
「ですから! そうじゃなくて……このお部屋、いくらなんですか。お家賃」
レイチェル、後半は尻すぼみに元気がなくなる。どこをどうとっても、プール付き物件の家賃など、想像を超えている。
あにはからんや、いや、想定内ともいえるその家賃は、
「そうそう、家賃な。えーっと、十万……」
「違う。百万二千円。管理費二万円」
源大朗のボケを、キアが冷静に訂正する。
「えーーー!」
「おええ!」
沸き起こった悲鳴には、源大朗の野太い声も含まれていた。どうやらボケではなかったらしい。
「百万も……」
「百万もするのかよ! 管理費込みで、百二万二千円……」
「こんな都会のプール付き物件、十万で借りられるわけない」
キアの言葉には、真面目にやれ、という呆れたニュアンスが。
鉄骨鉄筋コンクリート、築二十年。メゾネットタイプ、物件面積三百平方メートル超、ただし地下プール百五十九平方メートル含む、である。
「最寄りは都電荒川線だけど徒歩三分。地下鉄の雑司が谷駅までは十二分。がんばれば池袋までもニ十五分以内って、最高だな!」
「最高な物件が、最高な値段なのは、あたりまえ」
もはやキアのツッコミは、ただ事実を述べているだけ。
「がくっ」
「それはレイチェルのほうだと思う」
言われるまでもなく、
「……ない、です」
表情を失っているレイチェル。ない、とは、ありえない、の意味だろう。理由などは述べるまでもないので、急に無口に。
「そっかー。うん、まぁそうだなぁ。都心なのに静かで最高の住環境なんだがなぁ。七福神巡りに手創り市も……」
「もう、いい」
追い打ちをかけるキア。空気がズーンと重くなったのは、ここが地下のプールだからというだけではない。
「よ、よぉし! 次行くぞ、次!」
「ここ、は……」
レイチェルが見上げる。
周囲を埋める住宅の中では大きな建物だ。なにより、高い煙突が目を惹く。
入母屋造りの瓦屋根もクラシックな、その物件。
「どうだ。江古田駅徒歩十三分。ちょっと遠いが、なんとか車いすでも通える圏内だろ。西武池袋線で池袋から三駅。新宿には乗り換えになるがな。都心近場の住宅地で、立地の割には気取ったところのない下町感もありありで、暮らしやすい街だな」
胸を張る源大朗。
江古田駅は練馬区だが、ほとんど区境で、一丁目から四丁目まである町名の江古田は、すべてが中野区だ。
ちなみに江古田駅は「えこだ」駅だが江古田は「えごた」と読む。
駅前の狭くごちゃごちゃした道は、このくらい離れるとようやく余裕ができる。といっても、気を使いながら車がすれ違える、という程度だが。
家賃相場は、さっきの雑司ヶ谷などに比べればだいぶ下がるが、便利のいい場所でもあり、駅からの近さによってはアパートでも新築ワンルーム二十平米で七、八万円をつけてもおかしくなかった。
「で、これはなに」
キアが指さす。答えはわかっている。
「江、古田湯……」
たっぷり一間はある入り口の上に掛けられている看板をレイチェルがかろうじて読み上げる。
昔ながらの武家屋敷の門のような入り口。その上に掲げられた木製看板はひどく古ぼけていて、文字がかすれるどころか消えてしまい、レリーフになっている文字部分の凹凸でなんとか読める、程度だった。
その看板が物語るとおり、
「銭湯。お風呂屋さんだ。ただし、もう閉めて一年以上経つ。つまり風呂屋はもうやってない」
「暖簾も出てないし、そんなのわかる」
「だよな! なら話は早い。中も見るか」
玄関の鍵をポケットから取り出す源大朗。ここへ来るまえに寄った、他店の不動産店で鍵を借りて来たものだ。
「あ、あの」
「まあ、とにかく見てみることだ。そら、開いたぞ!」
ガラガラ。音を立てて木戸が開く。その先は、真ん中に人ひとり分のスペースを置いて、左右に扉がふたつ。
こんどはガラスに、「男」「女」の文字がわりとはっきりと残っていた。
「どっちがいい?」
なぜか源大朗の顔にニヤニヤ笑いが張り付いている。
「どっちでも、誰もいない、はず」
キアがいちおうレイチェルを振り返る。
「あの……「女」で」
戸惑いながらもレイチェル。
「そうか! だよなぁ! どぉれどれぇ……おお、開いたぞ!」
ガラガラ、さっきよりわずかに軽やかに、赤い「女」の字をすりガラスに描いた右の扉が開く。
中は、
「これが、お風呂屋さん!」
思わず声を上げるレイチェル。さっきまでの表情が一変していた。
「おう、女湯だ!」
こっちも声を上げる源大朗。明らかにレイチェルとは違った理由で目を輝かせている。
もちろん客などいない。
けれど無人の脱衣場には、ついさっきまで人がいたかのように、脱いだ服を入れるロッカーがいくつか開いたままになっている。
まだ三人がいる三和土の右側には、やはり無人の番台。
人ひとりがすっぽり収まる、木のコクピットのようなスペース。手元には学校の机よりもさらに小さい天板が。受け取った入浴料をコインごとにまとめたり収納したりする小さな金庫を置くのだろう。
足元には、売り物のシャンプーやタオルなどを収める棚もある。
「なぁ、この番台って一度座って見たかったんだよなぁ!」
明日も更新します!