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個人的には好きなシーンですw
二階に上がると、暗闇の中を風が吹き抜けた。
見ると、傾斜天井のせいで低い位置にある横長の窓が開いていた。そしてその前に、
「キアム、おまえか」
うずくまるようにキアムが。まぶかにかぶった帽子の下、暗い目をじっと源大朗に向けている。
「……」
キアムはしゃべらない。口元までも隠れる上着のせいで、表情もよくわからない。
だが源大朗には、いますぐにでもキアムが開け放った窓から外へと出て行ってしまう、逃げてしまう、その途中なのだとわかった。
その上着には、おそらく店の金庫の中にあった金が入っているのだろう。
つまりは窃盗、いや、持ち逃げだ。
「ふーっ」
ため息よりも強く、源大朗は息を吐き出した。目を閉じる、口元は笑っている。そのまま、どっかと床に座り込んだ。
キアムとの距離は二メートルもない。
それほど狭い二階部屋だ。さまざま段ボール箱などが積まれているが、店のもので、キアムの私物は何もない。
部屋の隅に、布団が畳まれていた。
一分も経ったろうか。源大朗は目を開いて、
「行くのか」
「……」
「なぁ、おまえはたぶんなにもしゃべらないだろうから、聞くだけ聞いてくれ。……ここを出ていってどうする。またスリや空き巣の生活に戻るのか。寝る場所も定まらない、明日のない生活に」
源大朗の思ったとおり、キアムは口を開かない。じっと源大朗を見つめるだけだ。
「不動産の仕事は、それほどおもしろいもんじゃないかもしれん。だがな、人には住処が必要だ。食べるものの次には家が、部屋が必要なんだ。だからオレはこの仕事を選んだ。それはおまえも、わかってるんじゃないのか」
こっちの世界で行き場がなく、住むところもなくさまよい、空き部屋に潜り込んでいたキアムだ。
源大朗の言うことは痛いほどわかるはず。
「管理局に突き出されるって、思ってるのか。オレがおまえを通報するって。見つけてすぐならともかく、もうおまえはウチでひと月近くもはたらいてる。通報なんかしたら、オレも処罰されるよ……って、信じられないか。そうだな。信じるってのは、気持ちだからな。理屈じゃない、信じられるって思えば信じられる、そうじゃないなら……だ」
あいかわらずキアムは答えない。ひと言も発しない。
源大朗が姿勢を変えようと腰をわずかに持ち上げたときだけ、キアムがビクッ、小さく身を震わせる。
「あー、待て待て! 違う! 武器なんか持ってねえよ。おまえになにかをする気はないし、これ以上近寄らない。これでいいか。だからおまえも、オレに飛び掛かるとかはやめてくれよな」
それから源大朗も黙り、沈黙が訪れた。
五分、十分……何分過ぎたろう。この部屋に時計はなく、源大朗も腕時計を見なかった。
ただふたり、ずっと、その目で会話するように、じっとお互いを見つめて、決して逸らすことはなかった。
沈黙が永遠のように感じられたころ、ようやく源大朗が口を開いた。
「……そうか。わかった。おまえの好きにするといい。オレは誰にも強制しない。おまえがしようとすることを、したいようにやりな。その金は、持って行っていい。いまのおまえには必要だ」
それだけ言うと、源大朗は腰を上げた。階段を後ろ向きに降りる。源大朗の姿が見えなくなる刹那、また風が、階下から吹き上げて、
「……ぁ、っ」
キアムがなにか言いかけた。その目が、訴えるように源大朗を追う。
しかし源大朗は止まらず、そのまま階段を降りて一階へ降り立った。後ろを振り返らず、裏口から外へと出る。
意外と冷えた外気に包まれる。源大朗は上着の襟元をかき合わせた。
「オレも甘いな。まぁ、いいさ。金を盗むより、盗まれるほうがいい、ってな。……へ、へくちょっ!」
大きなくしゃみが出た。
寒気から、鼻をすすり上げて、
「うーーーぅ、こりゃあどっかで一杯、あったまっていくとするか。あ、忘れ物。ま、いいか」
源大朗の足は、住処のアパートから、酒も飲める飯屋のほうへと進路を変えていた。
一杯のつもりが、例によってたっぷりと深酒してしまった源大朗の、翌日の出社はかろうじて午前中、という限りなく正午に近い時間。
すでに陽は中天に上っていた。
「ぅうぅ、頭痛ぇ……。帰って、アパートの床で寝ちまったのが致命的だったな。風邪ひいたか。げほっ!」
咳き込みながら目を上げると、そこにはいつもの夷や。
店は開いている。物件のチラシがいっぱいに貼られたガラス戸。その隙間から見える店内に、
「いるわけねえな。それでいい。いや、よくねえか。いや……」
PCデスクにはラウネアがいる。
まだ源大朗には気づいていない。カウンターの向こう、壁際のくぼんだコーナーが、キアムの居場所だった。いまそこは、空白になっている。
「そりゃそうだ。そりゃ……」
なぜか視界が歪んで見えた。ずずっ、鼻をすすり上げる。目尻ににじんだものを手の甲でぬぐおうとして、
「……じゃま、なんだけど」
背後から声。飛び上がりそうになって振り向くと、
「なっ! キア、ム……!」
そこに立っていた。いつもの、だぶだぶの上着とズボン。まぶかにかぶった帽子。その姿のキアム。
「おまえ、出ていったんじゃ……。ここでなにやってんだ」
「客と内見に、決まってる。遅いから、車使えないし、遠かった」
「内見、って、それ仕事じゃないか、なに業務やってんだ」
そこまで言ったところで、ガラッ、表戸が中から開いた。
「いつまで店の前で話しているんですか。お客さんが入れないですよ。早く中に入ってください。お茶でも、淹れますから」
ラウネアだ。微笑む。源大朗が風邪気味なのを見抜いたのか、熱いお茶を淹れようとしている。キアムにも。
「あ、そうか。ぁあ、ああ、そうか。はは! そうだな!」
なぜだか源大朗はやたら笑っていた。
笑いながら安堵し、安堵したらまた笑って、最後には目や鼻から液体まで漏れていた。
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