2
ちょっと今回長めです。
「ハフハフハフハッ……!」
せわしない息が断続的に、強く吹き付ける。生臭い臭いに顔をそむけたくとも、身体を押さえつけられていては、それもかなわない。
床の上。
のしかかるのは、客の男。
「ヴォーグじゃねえ。あんな仲良し軍隊ごっこの奴らじゃなくてな、一匹狼さ。ワーウルフって、呼ばれてるんだぜぇ、こっちの世界ではなぁ!」
鼻梁から先が伸びて、いまはさらに犬、オオカミの特徴が顕著になっている。
ボサボサの髪の間からは、ピンと立ったふたつの犬耳も。
下から見上げるキアム。
がっちりとつかまれ、ねじり上げられたパーカーの胸元は、中のシャツごとすっかりはだけて、白い素肌をさらしていた。
「くっ……!」
口を強く結ぶも、決して目は閉じない。逸らさない。
男はただパーカーの布をつかんでいるだけではない。そのまま拳でキアムの喉元までも押さえつけ、体重を乗せていた。
痩身とはいえ男の身長は百八十センチ以上はあり、ワーウルフの怪力もあって、キアムが撥ね除けられる可能性はほぼない。
「まえになぁ、行ったんだよ、おまえんところの店になぁ。そしたらなぁ、おまえがいて、ピーンと来たんだよ。おまえの匂いがなぁ……」
「……」
キアムは答えない。
ひたすら見上げ、男の目を見つめ、その視線の先に集中する。
男の目がわずかに動く。黒目だけが上を見る。
視線の先は、フードが外れて露わになったキアムの頭、その髪の間からふたつの、小さなネコ耳が立ち上がっている。
「ケットシーかぁ。ネコの匂いなんだなぁ。おまえも向こうの世界から来たクチだったんだなぁ。けどなぁ、俺たち……こっちじゃワーウルフって呼ばれてる、俺たちからすればおまえはちょうどいい遊び相手だぁ、ハフハ、ァハァハァ」
長い舌がプルプル、ペロペロと動く。同時にまた生臭い息がかかる。
ポタポタ、唾液までが落ちて来る。
生暖かい雫に顔を汚されながら、キアムが口を開く。
「こっちは、遊びたい気分、じゃない」
「ファファハハ! 遊ぶってのはぁ、そういうことじゃねええ! 俺ワーウルフがぁ、おまえケットシーを一方的にいたぶって、なぶって、くびり潰す、そういうことだぁあ! おまえはせいぜい、怖けりゃ目でもつぶってりゃぁいい。それともその目も、潰してやるかぁあ! ほらぁ、もっと怖がれ! 怖がれぇえよぉお!」
ますます舌がベロベロ、揺れ躍る。前髪の向こうの男の目が、暗い色を燃え立たせてキアムを見つめる。
「そんな、こと……うぅっ!」
それでもキアムが目を逸らさないと、
「ほらほらほらぁ! そうじゃないだろぉ! 犬とネコならなぁ、犬にかなうわけねええええ! まして俺はオオカミ、ワーウルフだからなぁああ! ケットシーのかわいい怯え顔見せろよぉお! ぉお!? この、牝ネコがぁああ!」
そこまで言うと男の目が、くるん、と下を向いた。
剥き出しになったキアムの胸を見る。
真っ白い肌がわずかにふくらんでいた。
ちょうどカーテンもない窓から差し込む午後の光が細長く当たって、胸の頂が透けるように光る。
「はーははははぁー! ハフハフハファッァア! いま食べてやるからなぁあ、文字通り、柔らかそーな胸も、腹も食い破ってそのはらわたもぉお……ぎゅぐ!?」
男の声が不意に途切れた。
「!」
キアムが身をひねりざま膝を打ち当てたのは男の下あごだ。あごが強制的に閉じる。ということは、
「ふぎゅぎゅぎゅ、ぎゅぶぁあっ!」
垂らしていた舌を思い切り噛んだ。
男の顔が苦悶に歪む。半ば千切れた舌から血が滴る。
キアムの裸の胸を見ようと男の目が動いた。視線が降りた、その瞬間をキアムは見逃さなかった。
「ぅんっ!」
そのまま身をよじって逃れる。が、喉元を押さえつけていた腕の重みが一瞬なくなっても、手はキアムの服をがっちりつかんだままだった。
ビビビビビビッ! 生地が引きちぎれ、破れる音とともに、なんとかキアムが男の下から転がり出る。
が、
「ぅぎゅぎゅぎゅる! そうはいくかぁあ!」
その足をつかんで、男が強引に引き戻そうとする。
しかしすんでのところでこっちも、ブカブカのズボンをわざと脱ぎ捨てるようにキアムが這い出す。
こんどこそ男と距離を取った。
「……すぅ、すぅ、はぁっ」
キアムの呼吸音は規則的だ。しかし大きく胸が波打ち、すぐにでも倒れ伏して喘ぎたい、そんな筋肉と呼吸器の限界を必死にこらえている。
「ほぉお、シッポもあるのかぁ。そりゃそうだよなぁ、ケットシーなら、シッポもあるよなぁー」
ズボンがなくなって、ずれたキアムの下着から、チアリーディングのポンポンのようなシッポがのぞいている。ふんわりと柔毛につつまれた丸いシッポが、警戒と緊張で小刻みに揺れる。
部屋の奥、腰高窓を背にキアムが身構える。
男が距離を詰めて来る。
さっきからずっと蹴られたあごをさすっていたが、
「痛ててて。こんなに舌が切れちまったぁ。まぁーったく、かわいくねえネコだぜぇえ。こりゃあ、たっぷりお仕置きだなぁあ!」
自分の歯で傷つき、真っ赤に染まった舌をベロベロ、ピロピロ、これみよがしに垂らし、そよがせて迫る男。
ポタポタ、血の雫が床に落ちる。
「ふぅー、おまえの舌も噛み切ってやるかっぁあ。くくく、ぐふふふ! そうそう、俺にもシッポがあるんだよぉお! ほらぁあ!」
男が自分のズボンをわざと緩める。腰ギリギリまで引き下ろすと、その尻から、ブォサッ! たっぷりと長い、ホウキのようなシッポが現れた。
「なぁあああ!? おまえをぶっ壊して、食っちまいたいって、シッポもよろこんでるぞぉお!」
そのとおり、シッポをブンブン振りながら男が腰を落とす。脚に力を溜め、その筋肉の力で飛びつき、いっきにキアムを襲うつもりだ。
「……っ!」
歯を食いしばるキアム。ちょうど射し込んだ光に、瞳がスリットのように盾に細くなった。
「ホォォオオオッ!」
男がとびかかって来る。その手の指爪が、数倍大きく鋭く尖っている。その爪がキアムの身体ごと引き裂こうとする。
そのときだ。
「キアムくん、伏せて!」
とつじょ、響く声。
その声に、男の爪から逃れるべく飛び退こうとしていたキアムが、即座に身を沈める。ちょうど腰高窓の下の、床へと伏せるふうになった。
そこへ、
「りゃぁああああああっ!」
サッシの窓が粉々に割れて飛び散るのでは。それほどに強く振りかぶった金属バットの一撃、だったのだが、
「あれ」
ドシッ! 衝撃にヒビが大きく走る。一部、欠片が落ちる。けれどガラスは割れない。しかし、
「はぁあああ!? なんだそりゃぁあああ、誰だぁああああ!??」
男が声を上げた。それでじゅうぶんだった。
「こっちだ」
こんどはドアが開いた。つまり男の背後だ。
「ふぁっ!?」
男が振り返る。が、そのときにはもう、
「遅いんだよ!」
部屋へ躍り込みざま源大朗が、男の腰から胸にかけて、逆袈裟に斬りつけていた。
ただし金属バットで、だったが。こちらも。
「ぐぎゃああああっ!」
金属バットとはいえ、源大朗の抜きつけは正確で強勢。
切り裂かれこそしなかったものの、腰から胸にかけて金属製の棒を叩きつけられ、ワーウルフの男は悶絶して崩折れた。
その男の背中に、ドカッ! 踏みつけるように足を乗せて、源大朗、
「ウチのかわいい従業員になにしやがる! 死ななかっただけ感謝しな!」
吐き捨てる。
その脇を、
「キアムくん!」
すり抜けて、部屋の奥へ走るのはアスタリだ。
「だいじょうぶですか! お怪我、は!」
キアムを気遣う。
「平気、だ」
そのキアム。そうは言うが、服はビリビリに引き裂かれ、ズボンもない。あまりに剥き出しの上、あちこち擦り傷と打ち身のアザができていた。
その姿に、
「……キアム、くん……って、女のコ、だった、の?」
窓の向こうから呆然とつぶやくマレーヤ。気づいたアスタリが窓の鍵を開けると、
「ぅ、ん……しょ!」
開いた窓からなんとか部屋へと入って来る。
じつはマレーヤ、隣室のベランダから強引にこっちの部屋の窓をぶち破ろうとしていたのだ。
さっきの一撃ももちろんマレーヤだった。隣室の住人にとっては、呼び鈴にドアを開けたら、
『ごめん、緊急! 入るよ!』
無理やり押し入って来て……、という具合である。
そのマレーヤ、やはりキアムを見つめて、
「胸……ある。ネコ耳もシッポも。それに……」
下半身に降りたマレーヤの視線がそこから動かなくなる。
「見るな」
キアム、逸らした顔の頬が赤く染まる。
「それくらいにしといてやるんだな。ほら、よ」
近づいた源大朗が、自分の上着を脱ぐとキアムの肩にかける。ワーウルフの男はまだ失神していたが、念のため後ろ手に手首を縛り上げてあった。
上着の前をかき合わせるキアム。
さらにアスタリがズボンを拾って来て、渡した。
マレーヤはまだ驚き顔のまま。
「けど、でも! キアムくんが女のコだったなんて。それにネコ耳、シッポも……か、かわぃいい!! マレーヤたちとおんなじだぁー!」
そう言うと頭の耳がフルフル、ミニスカートから伸びた長いシッポがブンブン、揺れる。
「おいおい、驚くのかよろこぶのかどっちかにしとけよ」
「なになになんでぇ!? おっさん、じゃない、知ってたのぉ、源大朗!」
「おっさんじゃないとしたら呼び捨てか。オレはおまえの友だちなのかよ。……ああ、知ってたよ。知らないわけないだろ」
「わたしも、知ってました。だって女のコの匂いが……」
「えーーー! アスタリもぉ!? 知らなかったの、マレーヤだけとかひどくなーい? でもいいや! だってキアムくん、かわいいし! 女のコのほうがもっともっと仲良くなれそうだし、もっといいかも!」
「……」
「立ち直り早過ぎだろ。……さて、と」
源大朗が後ろを振り返る。まだ伸びているワーウルフの男を確認しつつ、
「アスタリ、警察へ電話だ。こいつをしょっぴいてもらわねえとな」
携帯をアスタリに渡す。
「は、はい」
「そこまで、しなくても……」
「いいや。ケガがたいしたことなかったのはただの幸運だ。野放しにしたら、またこいつは来るぞ。鼻が利くからな。どこまでも追って来る。こういうのはちゃんとお上に任せるのがいちばんだ。おそらく入国許可を取り消されて、元の異世界へ強制送還だろうがな」
キアムに言い聞かせるように、源大朗。そのキアムは、マレーヤたちが作った壁の向こうでようやくズボンをはき終えて、
「……わかった。でももう、だいじょうぶだから」
「ああ。うちは給料は少ないかもしれないがな、従業員は家族と同じだ。大切な家族を傷つけるヤツには、オレが容赦しねえって、な!」
がはは! と笑う源大朗。見得を切りつつも、ここは三の線で落としたつもりだったが、
「ありが、とう……」
つぶやくキアムに、
「お、おう」
「へぇー、源大朗もいいとこ、あるじゃーん!」
バァン! マレーヤが源大朗の背中を叩いた。ほとんど、思い切りの強さ。
「痛えぞ、この!」
「ぁ、警察、繋がりました……!」
そのころ。
すぐそばの道では、三人の子どもたちがアパートを見上げていた。
少年野球の選手なのだろう。三人ともユニフォームを着て、大きなバッグを肩に下げている。
「まだかな」
「でも、静かになったから、騒ぎは終わったんじゃないか」
「ぼくのバット、そろそろ返してくれないかなぁ」
「ぼくのも……」
今日から毎日更新します。次は明日夜