転職マガジン
よく晴れた日曜日の朝だった。
村川誠はソファに寝そべり、雑誌を読んでいた。
妻の美代子は掃除の最中だった。夫が寝ているソファの周囲を掃除機を転がしながら、ゴミを吸い込んで回っていた。
「ちょっとガマンして。すぐ終わらせるから」と美代子が言うと、
「ああ、いいよ気にしなくて」と誠。
美代子はふと、掃除機をかける手を休め、誠に話しかけた。
「ところで、何読んでるの?」
誠は雑誌から目を離さず、ソファで寝返りを打ちながら答えた。
「たいした雑誌じゃないよ。夢を売る雑誌さ」
へえー、夢を売る雑誌ねぇ。まぁ、そうよね、雑誌ってもともと夢を売る本だもの。そう思いながら、美代子は雑誌の表紙をのぞき込んだ。誠の見ている夢が何の夢なのかを見てみたかったのだ。
雑誌は、鮮やかな色彩の赤。誰だかは思い出せなかったが、有名な俳優の顔写真を大きく掲げている。タイトルの黄色い文字がちらちらと見える。美代子は雑誌のタイトルを見ようとしてさらに腰をかがめた。そしてそのタイトルを見た瞬間、美代子の目は大きく見開かれた。
『転職マガジン』
それが、夫の誠が読んでいる雑誌のタイトルだった。
夕食の支度をするため、台所に立っていた美代子は、先ほど夫の誠が読んでいた雑誌のことを考え、頭を悩ませていた。
『転職マガジン』とは、就職情報誌の一種で、隅から隅まで就職情報を掲載している雑誌だった。
『転職マガジン』なんて雑誌を読むってことは、誠は今の仕事を辞めようと思っているに違いないわ、そう美代子は思った。
そもそも美代子は、誠が今の仕事を続けると思って結婚したのだ。美代子と誠は見合いをして結婚した。そして2人は結婚1年目だった。美代子はその結婚を少しだけ後悔しはじめていた。
本当に誠と結婚して良かったのだろうか?
今から離婚を考える?
それとも夫の転職に対して応援すべき?
美代子は悶々と考えながら、ひじきと大豆の煮物を作っていた。そして煮物が完成すると、それを小皿に移しながら思った。
今悩んでいてもしょうがない。夕食の時に、直接誠に聞いてみよう、と。
美代子はひじきと大豆の煮物を持って、食卓へ向かった。
「あれ? おかずが一品多いね。どうしたの?」
夕食時。食卓についた誠は、箸を手に持ちながら言った。
誠に何か言いたいことがある時、おかずを一品多くするのは美代子のクセだった。そんな美代子の心情を知ってか知らずか、誠は言った。
「いいね、僕はヒジキの煮物が好きなんだ」
誠の一言を聞いたあと、美代子は恐る恐る話を切りだした。
「ねえ、さっき夢がどうのって言ってたでしょ?」
「夢?」
「ほら、雑誌を読みながら言ってたじゃない。あなたは本当は何がしたかったの?」
すると誠は笑って言った。
「ああ、さっきはコンビニでビールでも買いに行こうかと思っていたんだ。冷蔵庫を開けたらビールが切れててさ。夜になったら飲みたいなぁと思って」
「そういう話じゃないのよ。もっと真面目な話」と美代子が言った。
「例えば将来の夢とか」
「将来の夢? そういえば僕は昔、飛行機のパイロットになりたかったんだよ。小学生の頃の夢だけどね。ほら、男の子ってさ、乗り物が大好きだろ?」そして今度は誠が美代子に訊いた。
「美代子は昔、将来何になりたかったの?」
「えっ?」
美代子は困ってしまった。こんな話題になるとは予想していなかったのだ。
「私は……」
そして美代子は、自分の過去を思い出しながら答えた。
「私は昔から、好きな人と結婚して幸せな家庭を築きたいと思っていたわ。平凡だけど、幸せならそれでいいと思ってた」
「夢は叶った?」誠はまた訊いた。
「分からないわ、まだ……」
美代子がうつむいて茶碗の中の白米をつついているのを見て、誠が言った。
「そうだ、ゴハンを食べたらコンビニでも行こうか」
夕食後、美代子と誠は、散歩がてらコンビニに向かった。だが、行きの道では2人は一言も言葉を交わさずにいた。
コンビニの中を一通り見て、夫の誠はビールとつまみのサキイカを手にレジへ向かおうとしていた。
美代子は夫に声をかけた。
「あなた、アレは買わないの?」
「アレ?」誠が首をかしげる。
「何?」
「雑誌よ。『転職マガジン』」
そして誠は、
「ああ!」
と声をあげた。そして誠は美代子に言った。
「いらないよ。別にそれは必要ないから」
コンビニを出た誠は、美代子に声をかけた。
「雑誌ってさ、面白いね。読んでいるとまるで夢を叶えてくれるような気になるよ」
そして誠は話しはじめた。
「『転職マガジン』ってさ、情報誌でたくさんの転職情報が載っているけど、全部の職場で働けるわけじゃないだろ? 転職したいと思う人は、最後には情報の中のたった一つを選ぶんだ。だから、自分の気に入った情報以外はゴミのような情報なんだよ。ところがね、僕はある日気が付いた。『転職マガジン』を見ながら、夢を見る方法だ」
「『転職マガジン』で夢を見る方法?」
「そう。つまりね、雑誌に載っている情報を見ながらもしこの仕事に僕が就いていたら、今ごろ僕はどうなっていたんだろう? ということを考えながら遊ぶんだ。本当のことを言うと、今の仕事はあまり面白くないんだけどね。だけど僕には、今の仕事以外考えられないんだ。自分の環境が変わるのは、僕はあまり好きじゃない。でも思ったんだ。想像だけは自由だと」
美代子には誠の言葉が信じられなかった。
「誠の言っていることはヘンだわ。だって『転職マガジン』は、転職を考える時に使う雑誌だもの」
家に帰り着くと、誠は言った。
「じゃあ証拠を見せてあげる」
玄関の扉を開け、誠はすぐに自分の部屋に戻った。そしてさきほど読んでいた『転職マガジン』を手に持って玄関先へやって来た。
誠は妻の美代子に雑誌を差し出してから言った。
「見てごらん。これは何月号?」
美代子は誠に言われるがままに、雑誌の表紙を見た。その雑誌は……1月号。半年前の雑誌だった。
「情報誌が役に立つのは、出た直後だけなんだ。だけど僕はこの雑誌を情報誌だと思っていない。だから今読んでも、楽しいんだ」
美代子は持っていた『転職マガジン』を誠に返して言った。
「夢を返すわ。だけど、夢を追いかけないで見るだけでいいの?」
誠は答えた。
「僕の夢は叶ったよ。僕は、静かで平凡だけど、幸せな家庭を持ちたかったんだ」
こうして誠は、たった一冊の『転職マガジン』をいつまでも大事に持っていた。
暇な休日になると、誠はソファに寝そべってはそれを見て、夢を馳せているようだった。
だがある古紙回収の日に、誠は美代子のもとに『転職マガジン』を持ってきて言った。
「捨てるよ」
「どうして?」
美代子が聞くと、誠は答えた。
「夢を見るには年を取りすぎた。雑誌に載っている仕事の大半は年齢制限で、応募できなくなってしまったんだ」
美代子は誠から『転職マガジン』を受け取りながら言った。
「じゃあ後で本屋で新しい号を買ってきたら? 年齢のことさえ考えなければ、きっと面白い夢が見られると思うわ」
「いいね。そろそろ新しい夢が見たかったんだ」
今でも誠は昔と変わることなく、同じ職場で働いている。平凡だが、妻の美代子と幸せに生きている。