花はもうすぐ
一年生は三階の教室。しかもワタナベという名字のおかげで、入学シーズンには授業中でも校庭が見渡せる特等席に座ることができた。
春は好きだ。何かが始まるような、ふわっとした雰囲気に満ち満ちていて、それでいてそれを抑えつけておきたいような、不思議な感覚になる。ひとたび春がすぎれば、この感覚は忘れてしまう。
まだ五分咲き程度の桜の花も、私にとっては申し分ない。だらしなく満開になり、媚を売るように花びらをばらまき始める前の、静謐な少女のような今が、一番好きだった。
「りえ、なにぼーっとしてんの?もう終会終わってるよ!」
突然、中等部からの友人のしずに話しかけられた。
「あ、しず。ほんとだ。気づかなかった。」
「部活見学いこーよ!りえはやっぱりテニス?」
「えーもう汗とかかきたくないー。焼きたくないー!」
「それもそうなんだよねー。でもでも青春っていったらやっぱスポーツ」
「え、しずってそんな熱血だったっけ?」
「ちがうちがう!スポーツやってる男子!ってかせっかくなら先輩!」
「えー先輩とかやばいって。手、出されて終わり!ぽい!」
「そんなみんながみんなそうじゃないでしょ!俺、スポーツ一筋で、女と遊ぶ暇なんてなかったんです。みたいな掘り出し物、絶対いるって」
「そうかなー?お母さん心配。気をつけるのよ、しずか。男はおおかみよ」
「ははは。何時代の話ー?てかいいよね、りえは。リョウ君だもん。敵なし。」
「そんなことないよーリョウだって人間なんだから」
「だって他にいる?リョウ君みたいにさらっとなんでもこなせちゃう人。でもそれをひけらかしたりしない人。」
「あいつ育ちいいからねー。でもさ、私にだって不満のひとつやふたつ、、」
「もーりえは自分の幸運に感謝しなきゃダメ!」
「はいはい。幸せですよー」
「結局ノロケかよっ!ほら、見学いくよ!マユんとこいこ!」
心臓がトクン、となったのが、しずにまで聞こえるんじゃないかと思った。
確かにリョウは私にはもったいない、できた彼氏だ。しずの言うようにスポーツだって勉強だってさらっとこなす。顔だって目元が涼しげで悪くないし、友達だって多い。どうして私のことなんか選んでくれたのか、さっぱり分からない。リョウを好きって女の子はたくさんいたのに。リョウが私を好きって噂を聞いたときは、信じていなかった。でも、中三になる春に本当にリョウが告白してくれた時、私のちっぽけな自尊心が満たされていくのを感じた。リョウ君が私を好き?たくさんの女子を差し置いて?と考えるだけで自分が主役になったみたいだった。誰もが私が断るなんて思ってなかったし、私もそんなことは思い浮かばなかった。
リョウのことは好きなんだと思う。というか、尊敬している、というほうが近いかもしれない。同学年なのに、変だと思うかもしれないけれど。リョウは私を本当に大事にしてくれるし、いつだって正しい。でも私は、別の人を目で追ってしまう。
タツヤ。
柔らかな茶色がかった髪。長い指。
教室に他の生徒がいなかったら、いつまでも見てしまうと思う。でもその笑顔が向くのは、マユのほうだ。とびきり優しい、柔らかな視線で、ふたりはお互いをみる。
しずもリョウもタツヤもマユも、同じ中等部からの持ち上がり。タツヤ+マユ、リョウ+私。いつもセットで見られている。
いつもの帰り道を、リョウと二人で歩く。
「ねえ、りえ?」
「どした?忘れ物?」
「今日、うちこない?」
「お母さん、連れてこいって?外で悪いことするくらいなら、監視下において混ざっちゃおうって魂胆だね。」
「今日は、親、いないんだ。同窓会と出張。」
間。
「あ、そうなんだ。めずらしいね」
心臓が速くなる。何か言わなきゃ。
「だめかな?」
「ちょっと、今日は、、、」
「なんで?」
「ごめん、ごめんねリョウ。まだ、ちょっと、考えられないっていうか」
「俺ってりえの何なの?」
真っすぐにリョウを見ることができない。
「リョウは、大事な私の彼氏だよ。」
「それでも、俺が怖いの?もう、一年も一緒にいるのに?」
「リョウのことが怖い訳じゃなくて、、、」
「タツヤならいいわけ?」
反射的にリョウの顔をみた。頭にのぼった血が、一気にひくのがわかる。
リョウは怒っている。見たことないくらいに。
言葉がでない。必死で首を振る。
「ね、どうして?俺、あいつに負けてるかな?」
「そんなことない!リョウはいつだって完璧だよ。でも、、、
「でも?」
このもやもやを、言葉にできない。涙があふれる。
「とにかくリョウは私にはもったいないって、いつも思ってる。尊敬してる。」
「尊敬なんてされたって嬉しくない。俺は何?聖者だとでも思ってんの?男じゃないと思ってんの?」
「そんなこと思ってないよ!」
「俺がお前があいつのこと目で追ってるの、平気で見てると思ってんの?」
「見てない!ほんとだよ!私にはリョウが大事!」
「じゃあなんで、、、」
向かいから、別の高校の制服を着た女子高生が二人、歩いてきた。けんかしているこちらを見て、こそこそと話している。
「、、、ごめん。」
「ううん、なんか、ごめん。」
「俺、ほんとにりえが好きなんだ。」
「うん。分かった。」
好きと言われるのは、嬉しいことだ。それは本当。でも、その思いがどれほど強かろうが、それと自分の思いの強さは、関係ないのかもしれない。思いの大きさは、いつだって二人のどちらかに偏っている。
確かにリョウは頭も良くて、スポーツもできてかっこよくて、人がうらやむものをたくさんたくさん持ってる。確かにそういうものって分かりやすく人を惹きつけるけど、でも、人を好きになるのって、そういう理由からなの?そういう漠然とした疑問を持ちながらも、ずるい私はリョウと付き合い続ける。
15歳なんて、どうしようもなく不安定だ。自分が将来どうなるのかわからなくて、不安で不安で仕方ない。自分は「○○」だ、という区分けが欲しくてたまらないのに、それでいて何かに落とし込まれるのは不本意にも感じる。くすぶり続ける自己顕示欲と、それでいて大勢から逸脱することの恐怖。これらの矛盾が形をもたないまま神経をすり減らしていく。
学校には様々な区分けがある。あのグループはちょっとギャル、とか、あのグループはオタク系、みたいな。見えないグループだけど、それに鈍感でいるわけにはいかない。注意深くまわりを見て、うまくあっているところに入り込まねばならない。たまに行われるグループ間の異動は、静かだけれどすぐに知れ渡り、それぞれの頭に情報として登録しなおされる。
学校生活においては、主にそれは服装や音楽といった流行にのっているか、男女関係、部活などで決まってくる。少なくともりえの学校ではそうだ。
勉強ができても、友達の輪に入れるわけでもない。
見えない階層にそって生きていく。それからあぶれればひとり
食事、教室移動、体育のダンス、修学旅行の班分け。
ひとりの存在が際立つように、学校生活は仕組まれている。
それに耐えられるほどの強さをりえは持たない。
あのあとリョウとは気まずくて、歯医者に行くから、とか新しくできた女友達とクレープ食べに行くから、などと嘘をついて帰りをずらしていた。
ある日、昇降口でスマホを見ているタツヤを見つけた。私の胸は、勝手に速くなる。リョウをあんなに傷つけたのに。
「タツヤ。あれ、マユは?」
「おお、りえ。いや、けんじ待ってんの。りえこそ、今日はリョウと一緒じゃねえの?」
「いーっつもリョウと一緒にいるわけじゃないから。」
少しムキになってしまう。
「それを言うなら俺だっていーっつもマユ待ってるわけじゃありませーん。」
「あはは。確かに。なんかさ、カップルってセットで数えられちゃうもんね。」
「そーだよなー俺なんか女子の中では結局マユの彼氏って覚えられてるもんなー。」
「そんなことないよ。」
タツヤが、少し驚いてこちらを向いた。
思っていたより真剣な声になってしまい、焦る。
「ほら、だって二人って同じくらい目立つじゃん!お似合いだし!それに比べたらさ、あたしなんてほんとにリョウの彼女ってだけ。ってか誰あれ、なんでリョウ君あんなのと付き合ってんの?って、本気で思ってる子たくさんいるしさ。」
しゃべりながら、目頭が熱くなってきてしまった。こんなこと、言いたくない。よりによってタツヤに。でも、口が勝手に動いてしまう。
「お前、何言ってんだよ。リョウは、りえじゃなきゃダメなんだよ。」
「え?」
「リョウはさ、りえのいいとこをちゃんと分かってるよ。」
「何言ってんのもー!調子いい!」
「ちげーって。これほんと!リョウに聞いたもん。」
「何?何?どんなとこ?」
「教えてやんねー」
「は?ならなんで言ったの!」
「でも分かるよ?俺も。リョウがりえのことすきなの」
「え?」
タツヤは躊躇せず人を見据える。目を、そらせなくなる。
「教えねーけどなっ!」
「もー何なの!気になるじゃん!」
タツヤは笑うだけだった。
しばらくして、社会科見学で地元のフィールドワークをすることになった。要はグループで、何箇所か歴史的な場所とか博物館とかを巡って、うまくまとめて発表するようなやつ。
女子のいつものグループで、無難に地元の大きめの大社に来ていた。
「あ!小井戸君のグループ!」
小井戸君が今のしずのお気に入りだ。ヤスー!と仲のいい別の男子をだしに近づいていく。
「りえ。」
いつもの、落ち着いて澄んだ声が聞こえた。
振り返ると、リョウがいた。相変わらず、姿勢がいい。
「あ、リョウ。リョウたちもこの寺来てたんだ。」
普通に普通に。それでもやっぱり声が上ずった気がする。
「ここは定番でしょ。はい、これ。」
?
親指の先くらいの大きさの、ちりめんのフクロウのお守りだった。
「かわいい!渋い!」
「さっき見つけて。おばあちゃんぽかったかな?」
リョウが照れるようにはにかんだ。
ああ、リョウも緊張してたんだ。どうにか仲直りのきっかけを作ろうとして、目に付いたもの買っちゃったんだ。
なんとなく本心が見えなくて遠かったリョウを、こんなに近く感じたのは初めてかもしれない。
「りえ、ごめん。俺、確かに焦ってた。なんかさ、周りもどんどん大人になってくじゃん?そんなんで劣等感もあったし、手っ取り早くりえを試そうとしてた。かっこわる。」
はは、とリョウは笑った。
「ありがとう、リョウ。」
「まあ、多分また誘っちゃうかもしれないけど、ぴしっと断っていいから。」
「誘うんじゃん!」
唐突に、リョウをかわいいと思った。
同時に、もっと知りたいと思った。
初めての感情だった。
リョウたちと別れてから、温泉を利用した交流施設に向かう。銭湯や足湯なんかはもちろん、売店や食堂、貸し部屋なんかがあって、結構大きい。
そこでばったり、タツヤに会った。ベンチに座ってアイスを食べている。近づいていくと、いつもセットしている髪がぺたんこになっていた。柔らかい髪がふわふわと所在なげにただよっている。
「おう、りえ。奇遇だな。」
「え、ちょっと、タツヤ、銭湯入ったの?」
「そうそう、じいさんたちとの交流を図ろうと思って。」
ぶっと吹いてしまう。
「銭湯なんて入っていいわけ?一応授業でしょこれ。」
「いいんじゃん?銭湯入っていけませんて言われた?しかも俺のぼせやすいからたった5分だかんね?」
こういうところが、憎めない。
思い切って手を伸ばす。髪を、ふわふわ触る。
「ちょ!何すんだよっ」
ベンチの後ろにまわって、構わず髪を触り続ける。
「天パ。ふわふわ。」
「気にしてんだよ!髪崩れるからやだったのに、あいつら湯船に突き落としやがって。」
「はは。天パ天パ。」
良かった。気付かれてない。ずっと、触れたかった髪。
もう、きっと一生触れられない。
「しょうがねえなー今日だけだぞ。」
タツヤは振り向かないでくれる。目の前の柔らかな髪が滲んでくる。
「りえ、ごめん。」
「ふふっ何が。」
めいいっぱい普通の友達を装う。
「ごめんな。」
優しい。タツヤ。
私はたぶんリョウと別れることはできない。
タツヤに面と向かって思いを伝えて、玉砕することもできない。私は、ずるいから、きっと、ずっとこのままだ。