第一章 シンクレア戦記 1
第一章 シンクレア戦記
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ラブラス共和国。
アルビオン王国から一二〇〇クロント南南西の位置にあり、大ラブラス島からなる諸島国家である。
古くはハルジャーという文明が栄えたが、約千年前にアルビオンから移住したアルビノ移民によって取って代わられ、源流を同じくするアルビオンとは良好な関係を築いている独立国家である。
三つの州からなっており、経済の中心地であるリリビア州に置かれた首都トマーウェルにモリス・エルドランは住んでいた。
市内の一等地に建つ豪邸で、モリスは電話の応対をしている。
相手は同市内に在るアルビオン領事館の領事であるが、彼は酷く狼狽した様子で釈明していた。
「もう少し、もう少しだけ時間が欲しい。あと少しで新たな術式が形になるんです。そうすれば賢天評議会も枢密院も納得してくれる」
『ですがね、エルドラン卿……私も伝えて欲しいと言われているだけでして、あなたが召喚状にも応じないものだから、こうして電話を掛けているのです。評議会はとにかく一度帰国せよとのこと。なに、危惧されているようなことにはなりませんよ。あなたの魔術はアルビオンにとって有益なものだ。みんな理解していますよ』
見え透いた嘘だ。自分には関係ないと思って、口先ばかりのお世辞で濁そうとしている。
「それは……いや、待ってください。必ず今年、いや、半年です。半年くだされば、私の《複合練成召喚》は次のステップに辿り着く。あと半年。本国にそうお伝えください」
『まあ私は構いませんがね。ただ、催促の手紙に辟易しているくらいです。それでは』
通話が切れると、どっと疲れが押し寄せてきた。受話器を戻して大きなため息をつく。
鬱屈とした顔を擡げ、重い足取りで自室に向かおうとすると、妻のミコットとすれ違う。彼女は余所行きのドレスに身を包み、えらく粧し込んでいた。
「ミコット、どこへ行くんだい?」
「街へ行くの」
「最近多いぞ。リースを放っていくのか」
「わたしは子育て機械じゃない。たまにはあなたが面倒を見たらどうなの? いつも家に居るくせに魔術魔術って。まあいいわ。夕食までには戻ります。でも遅れるようなら先に済ませてしまって構いません」
やけに険のある口調で捲くし立てると、冷めた態度で彼女はさっさと行ってしまう。
この些細な争いにまで気が滅入る思いだ。煩わしいことが積もりに積もって山積している。どうしてこうなってしまったのか。
廊下を歩いていると、角から使用人たちの立ち話が聞こえて足が止まった。
「ねぇ知ってる? 旦那さま、賢天から降ろされそうなんですって。この間ね、旅先から帰ってきた彼から聞いたの」
「えっ? 本当なの?」
「ええ。アルビオンの新聞でね、賢天の魔術師は一二枠しか無いらしいんだけど、二年前に賢天になったシンクレアさまで一三人目だったのよ。だから一人削られるって話」
「一人くらい余分に抱えたからってなんだってのよ。別にいいじゃないけち臭い」
「なんでも相当お金が掛かってるらしいわよ。ほら、ここお給料いいでしょ? でもその所為で万年戦争している政府が金策に走ったんですって。それで標的にされてるのが旦那さまってわけよ」
「だから近頃機嫌が悪かったのね。そりゃ奥様も家に居たくないはずよ」
「だから次の勤め先、早く探したほうが良いわよ」
「なによその他人事みたいな言い方」
「だって私はほら、永久就職決まってるから」
「うわ、嫌味ぃ」
弾けるように嗤いあう給仕たちが通り過ぎるのを、モリスは物陰に隠れてやり過ごした。
動悸が激しくなり、胸に痛みを覚えると自室に駆け込んだ。
机にしだれかかって、歯を喰いしばり苦しみに耐える。妻や使用人、そして本国の政府が自分を責め立てているような錯覚に囚われる。その責め苦に反抗できない悔しさで脳が焼け焦げてしまいそうだ。
手元にあった書きかけの術式理論を握り締めると、乱雑に破り捨てた。
扉がノックされ「お客様です」執事のゴルドーの声。すぐには答えず、深呼吸しながら立ち上がり「誰だ」と尋ねた。
「オボロさまです」
その名を聞いた途端に胸の痛みが治まり、すぐ通すように言いつけた。
オボロがやってくると、モリスの落ち込んだ表情は一変して明るくなった。
漆黒のローブを纏いフードを目深に被った怪しげな風貌は、古典的な魔術師像そのものだ。
彼の青白い口元が、今週分の薬が調合できたことを告げるが、そんなことは重要ではないと招き入れた。
オボロはモリスの担当医でもあるトマーウェルの魔術師だった。
心労が絶えないモリスの為に霊薬の調合をしているが、同時に相談に乗ってくれる友人でもある。
彼にだけは心を開くことが出来たモリスは、一向に進まない研究の事を打ち明け、今日も催促の電話が掛ってきた事を包み隠さず話した。
「このままでは何れ賢天を座を追われる事になる。そうなればもうお終いだ。全てを失ってしまう。使用人にすら陰口を叩かれているんだ。これが本国だったなら私は、もう、耐えられなかっただろう……」
「私は君の魔術を評価しているよ。評議会の見る目が無いだけさ」
オボロから励ましの言葉を嬉しく思う一方、懸案事項が目の前に立ち塞がる事実に変化は無く、足枷に囚われた心境はずぶずぶと底無し沼に引きずり込まれて行く。苦しみから解放されたくて、さっそくオボロから渡された薬を服用した。
「あまり霊薬に頼ってはいけない」とオボロは窘めるが、モリスは首を振って聞かない。
「学会では、私の魔術は先の無い魔術だと囁かれている。今のままでは国際魔術師条約に抵触する打開策しか思いつかない。そうなれば結局、賢天を追われることになる。もうどうしたらいいのか……時間ばかりが過ぎていってしまうんだ」
「高みを目指しながら深遠を求める――というのが、国に仕える大魔術師のあり方です。地位が無ければ真理を探る環境が手に入らず、深遠を探れば地位が崩れる。この矛盾の中で生きていくのは大変な苦労だ」
そんな風に言ってくれるのは君だけだ、とオボロの心遣いに感謝して目を伏せる。
霊薬のお陰か、いくらか心に平穏が訪れていた。
「大丈夫、うまくいくさ。君の実力は私が一番理解している。しかし――わが友の窮地だ。助力は惜しまんよ」
オボロはブリーフケースから大判の封筒と羊皮紙の束を取り出し、テーブルに滑らせて寄越した。
「わが祖父の研究だ。完成を前にこの世を去り、父もこれを引き継いだが複雑すぎて断念してしまった。私も目を通したが、難解な暗号が散りばめられていてろくに読むことすら出来ない。だが君ならば――『賢天の魔術師』ならば、何であるのかわかるだろう。祖父の話が本当ならば賢天の秘奥に近づくほどのものではない。しかし、少しでも君に刺激となるなら、試してみる価値はある」
意味深に告げられたモリスは、目の前の資料に興味が湧いた。
藁にも縋りたいという実情ゆえに、これがもしかすると起爆剤になるのではないか、そのような期待を抱いて彼は古い文献を紐解いていった――。