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第四章 賢天の魔術師 9

 冷たい夜風が報せを携えて訪れた。

 ほんの少しの幸福なひと時は終わりを告げたのだ。

 薄く開いた瞼の先には黄昏の空が落ちている。

 かつて神々の戦いがあったとされる宵闇もこのような眺めであったのだろうか。

 戦いと世の終焉を告げる笛はいつ吹き鳴らされたのだろう。


「寝てる間に終わっててくれたらよかったのにね」

 我ながら軽口を叩く余裕があることに呆れてしまう。

 見渡す限りの軍集団は影を立たせ、彼らの首領は赤子のように地を這い進む。

 彼はあたしが見えているだろうか。ちゃんと認識しているだろうか。まだ微かでも意識が残っているのなら、せめて悔悟の言葉を聞きたい。

人々をあのような姿にしたことではなく、自分に悪魔を降ろしたことでもない。

それは神の慈悲でもなければどうにもならないことだ。だからせめて、これから父の罪を背負って生きるあの子が、前に進める言葉を遺してくれたならと切に願う。

『大佐、聞こえますか。モックです。大佐……』

 無線に呼ばれて、自室に居るときのように物臭に立ち上がって応答する。

「聞こえているわ。あんばいはどう?」

『住民の避難は完了。部隊も先ほど点呼を終えました。あとは大佐だけです。そちらはどうですか?』

「いいタイミングよ中佐。丁度いま、来たところ。これから始めるわ。どんな理由があろうと、リリビアの精霊圏に立ち入ることを禁ずる」

『承知しております。念のために丘を一つ越えて待機中です』

「よろしい。じゃあ、はじめるわ」

『ご武運を――』通信終了。

 

懸念材料は全て取り除かれた。

この大地には無数の亡者と悲しい王様、そして自分という人間が一人居るだけだ。もう何一つ憂慮することは無い。後悔も無い。決意はとっくに済ませている。ただ少し、自分の力不足を嘆く程度。

いつも完璧な物語を夢想しては、夢のまま想いを馳せるだけの尻切れトンボだ。それでも自分はいつも、理想に手を伸ばし続けているし、これからもそうする。

この腹の虫が好くままに――。

「モリス・エルドラン――ッ!」

 丘の頂に立ち、窪地を挟んで対峙している巨大な炎の魔人に呼びかけた。彼に聞こえるように、あらん限りの声を張る。

 嬉しい事に、彼にはこちらを認識するだけの意識があるようだ。あるいは単なる憎悪の残滓であるのかもしれない。膨れあがった呪いが口が溢れ出ている。


――シンクレア――シンクレア――シンクレア。


 炎の魔人は吼え続けた。

 悲しみに暮れた男の最期の写し鏡として、自分を否定する全ての者への復讐を遂げるために、己の絶叫を世界に焼き付けるために、彼は怒りの炎へと身をやつした。

 慟哭は天を衝き、嘆きは世を覆い、流れた涙で大地をさらう。荒れ狂う炎は火山弾となって地上に降り注いだ。在りし日の男の(ごう)により、苦しみの内に縛られた者たちは地獄の軍団となって押し寄せてくる。

「苦しいでしょう。でもね、あなたの歪んだ苦悩を彼らに植え付けても、あなたの苦しみは終らないわ。いい加減に放してあげなさい」

 長く続いた暗い空に光が差し込む。

 重厚な雲の切れ間に、煌々と光り輝く月の姿が垣間見えた。乳白色の月明かりが、もみの木のある丘を柔らかく包み込んでいく。

 一人の魔術師として、一人の人間として、モリスに同情を寄せよう。

 だがこんなとこをすべきではなかったんだ。苦しくて辛いからと言って、甘言に惑わされ、悲しみと憎悪を振り撒く悪魔になってはならなかった。

 出来る男ではなかったかもしれない。

 強い人間でもなかっただろう。

 巡り合せだって良くなかった。


「それでもあなたにはあの娘が居た。あなたを信じる娘が居た。あなたが拠り所とすべきだったのは、世間でも、魔術でも、ましてや不埒な魔術師の戯言なんかじゃあなかった!

モリス! あんたは最大の理解者を裏切ったんだッ!」


 怒号の瞬間、影が広がる。

 彼女の影は俄かに大地を塗りつぶし、リリビア州全域に渡る精霊圏が黒く覆われていく。腰から抜いたナイフをインクの大地に投げて突き刺し、短く呟いた。


自動詠唱(シヤントアウト)――――影を喰らう者たち(ルーヴ・リヴェーレ)

 

 リリビアのマナを司る精霊は、突如として組み伏せられながら喉元にナイフを突き刺された。

 流れ出るマナの血が得体の知れない存在に吸い上げられていく。もがき苦しむ精霊の叫びは地鳴りとなって轟き、魔女の言霊は精霊の声と交わっていく。


《我らが父祖の号哭を聞け。落陽の丘に佇み、明けぬ夜の瞑々に、曙光を望むただ一人。人の影よ、世の陰よ、汝ら不忠の咎人よ。岩戸に槌は降ろされた。光を視よ――穴ぐら住まいの亡者たち。我は反逆の影。我は影を喰らう者。岩戸の森奔る獣なり――》

 

 世界が謳う。彼女に従えられ、自らに刃を突き立て、その血を持って術となす。

 〝精霊殺し〟の魔術が精霊の法を破り、精霊の言霊により紡がれ、精霊の(マナ)によって胎動し、精霊の子弟を殺す獣が世界に産み落とされる――。

 シンクレアの影から這い出した茫漠の狼たちは、体を覆う朧を靡かせ疾駆した。

 その数は一つ二つと増えていき、あるときを境に数の意味を持たなくなった。彼らは比喩ではなく大地を埋めたからだ。合成体(キメラ)はたちまち四肢を分かたれ獣の波間に消え去る。

 哀れな軍隊はたちどころに殻から解き放たれていった。

 炎の魔人は咆え続けた。

 炎の体すら喰らう影の獣に身を引き裂かれ、悲鳴と共に火花が散らされる。大地を焼き払う紅蓮の光を瞬かせるも、彼ら獣は影から無尽蔵に湧き続けた。薙いだ腕には、烈火の輝きを覆い隠すほどの獣たちが喰らいつく。あらゆる業の生存を許さぬ彼らは、清かろうが悪しかろうが一切を問わずに『生』を喰らった。

 リリビアの大地に住まうあらゆる|業(人)が、影の餌食となっていく。

 モリスの招聘を受けて北の町から移動していた合成体(キメラ)も逃れることは出来ない。この精霊圏の全てが、影を喰らう者たちの餌場であり狩場だった。

 光あれば影が生まれ、人があれば業の陰が生まれる。

 業という業を喰らい、獣は奔り続けた。

 やがて炎の魔人は体を覆い尽くされ、黄昏の陽光は落日する。

 モリスは泣いていた。

 泣き続けていた。

 群狼の波に押し流され、埋没した奥底で、その魂の灯火が消えるまで――。

「モリス、泣くのを止めて。きっとあの子が聞いているわ」


 思うようにはいかない。

 望む結果には手が届かない。

 あたしの好きな物語とは常に希望が残されていた。しかし現実の世は本当にままならない事で溢れている。どれほど幸福な結末を願っても、非情なる運命の女神は、あるがままの世界をただ傍観しているだけだ。力の有る無しに係らず、出来る出来ないに係らず、下界を這うしかない者たちに、苦難の壁を野放図な差配によって立ちはだからせる。

 自分が物語の登場人物であったならと思う。自分があの冒険譚の英雄であったなら、こんな悔しさと悲しみを味わうことも無かっただろうに。

 |シンクレア(憧憬)の背は遠く、|アルトロモンド(理想)は遥か彼方だ――。


 リリビアの大地にはもう誰も居ない。

 犇めく狼の群れも、精霊のマナを喰らい尽くしたことでやがて消えた。

 賢天の魔術師(サージオ)『群狼のシンクレア』は、寂しげな眼差しを風に流し、白む東方に背を向ける。狼たちに喰われた人々の思惟に耳を傾け、モリスの哀哭に瞳を瞑る。

 傍らに控えるハティの遠吠えが、主人の気持ちを謡うようにか細く丘を渡り、戦いの終わりを告げていた。




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