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第四章 賢天の魔術師 8

 トマーウェルを離れて二時間が経とうとしていた。

 陽は完全に沈むも、空は依然として重々しい雲に蓋をされ、星々の煌きも、月の女神の加護も受けることはかなわない。炎の魔人となったモリスの引き起こす火災だけが、不気味のその存在を誇示し、ラブラスの大地を黄昏に染める。

 明かりになって丁度良い、などという軽口も、地平線を埋め尽くす合成体(キメラ)の群を前にしては呑み込まざるを得ない。

 レヒト中佐が率いる機甲部隊は、ラブラス大橋に攻撃を集中してこれの破壊に成功したが、無尽蔵に湧いて出る合成体(キメラ)が次々と身を投げて積み重なり土台を築くと、敵の進撃は加速した。

 炎の巨人による火球攻撃も観測されて、二両の戦車が足回りを破壊されて擱座。

 レヒトは後退を余儀なくされた。

 この勢いは止められない。こちらの弾と爆薬を全て使い切っても十分には程遠い。

 モリスは南下を続けるだろう。リリビアを席巻し、騎虎の勢で残るカウウィ州、ネーザンドルム州を制圧し、ラブラスの完全掌握を果す。疲れを知らぬ合成体(キメラ)ならば、三日以内にこの国は落ちる。

 第七独立連隊の戦力ではとても対抗できるものでは無い。

 これの報せを持ち、リリビア南部に住む民間人に避難指示を出したのだった。

 州を越え、カウウィー州へと逃げるように。ところが――。


「民間人が避難を拒んでるって?」

 俄かに信じ難い話ではあったが、わからなくも無いと考えを改める。他国の軍隊に住み慣れた家を捨てろと言われて良い顔をする者が居るはずがないのだ。魔族の軍隊が迫っていると告げたところで、突拍子も無いと切って捨てられるだけだ。しかし彼らが真実を知ったとき、全てが手遅れとなるのは明白だった。

 見捨てるか否か――。

 これまで巡ってきた町に思いを馳せれば、そこで暮らす人々の情景を容易に思い描くことが出来る。

 戦争のことなど全く知らない住民達は、呑気に日々の生活を送っては、こちらの頭を悩ませてくれた。小憎たらしい年寄りは多いし、ろくすっぽ商売もさせてもらえず、骨折り損のくたびれもうけもいいところだった。

 良い思い出なんて無いし、さっさとこんな糞田舎からは出ていきたかった。

 彼らには大した感慨も無いし、アルビオンの利害には無関係だ――そうは思っても、(えにし)が自分をここまで運んで来てしまった。

 あそこは活気があって楽しそうだった。

 美しい町並みは好ましいものだ。

 長閑な農村も嫌いじゃない。

 おいしい料理はなお好ましい。

 故郷を持たぬ自分からすれば、伝統と文化を継承し続けた祭りに感じる郷愁は愛すべき心の機微。

 人々は今日を生き、明日も生きていれば、誰かの(・・・)決意と選択と、優しさによって繋がれ歴史を重ねていく。

あの偉そうな老婆はせせら笑う。


『自分が何者であるか示さなければいけないよ』


 視線の先には、モリスの嘆きを炉にくべて燃え盛る大地。

「急いで撤退しましょう。このままでは我々も手遅れとなる」

 ブンスローを放棄して稜線上に設置した仮初の指揮所で、モック中佐がそう進言してきた。

 背中を向けたまま、首を横に振ってそれを拒んだ。

「民間人避難のための時間を稼ぐ。後方支援の部隊を全て動員して彼らをカウウィー州に送りなさい。拒む住民は銃で脅しつけて良い。彼らが全員リリビアを離れるまで、あたしたちは踏みとどまる」

 何を馬鹿な、とモックは詰め寄ってきた。

「いいですか大佐。アルビオン人ですらない彼らのために、兵士達に犠牲を強いるわけにはいかない」

 ここで退くわけにはいかない。

「一人残らずリリビアから脱出させる。スプートの領主と、魔女カーミラの協力を仰ぎなさい。馬車も動員してもらって。装甲車にも乗れるだけ乗せてね」

「判断を見誤っています、シンクレア。そんな事をすれば兵たちから反発や混乱を招く恐れがあります。兵士はそう言う自分たちの扱いを気にするものです」

 指揮所に詰めていた参謀将校や通信兵達の視線を感じる。

 彼らを率いて国益を守る軍事行動こそが指揮官に与えられた本分であり、一人でも多くの将兵を祖国に生きて帰すことが大任である。そんな事は今更言われるまでも無く了解している。

 それでも、絶対にここで譲るわけにはいかない。

 確信でもなければ信念でもない。だた一重の心情に依って。

「あたしたちは確かに軍隊だ。アルビオンの矛であり盾だ。そしてこの国の人々は赤の他人。それでもここで彼らを見捨てれば傷になる。あたし達の誇りと信じる道義に傷がつく。これを許せばその傷から人は腐ってしまう。正道は目に見えないだけで、心の中にみんな持ってる。たとえ軍人でも、常に人倫を排さなければならないという謂れは無い」

 モックは目を丸くして、小さなため息を零す。

「――普段から、もっと確りしていてくだされば、その言葉にも説得力を持たせることが出来るのでしょうが……と言うのは無粋ですな。これも貴方の〝普段〟の内なのでしょうからね。まったく混沌としていらっしゃる。戦死者が出ますよ?」

「あたしは皆を信じてる。あたしの将兵は強いから」

 炎を湛えた真っ直ぐな赤銅の瞳を向けられたモックは、これは梃子でも動かないだろうと悟り、降参するとため息をついた。幕下の将校達は笑っている。通信兵の一人は、したり顔でシンクレアの発した言葉を無線で流し、周辺の部隊全てに彼女の意思を届けていた。その彼から無線機を受け取ると、彼女は最後の命令を下した。

「こちらは第七独立連隊、連隊長シンクレアだ。全軍に通達する。力なき人々を助けよ。殿はお前達の(・・・・)シンクレアが務める。諸君らは――英雄譚となれ!」


 人を動員するには、その理由や建前と言うものが必要となる。民衆や軍隊という群れ。

 このような群集には、不思議で危うい力がある。不安定なこの力は、正と負の狭間に立って揺れ動き、少しの力で光と闇のどちらにでも傾いてしまう。この群集の心理は、力なき人々を救う英雄譚という正道を指向する一声で、大きく傾いた。

 軍人になった経緯は皆違えど、幼少より培ってきた常識という道義を呼び起こす。

 彼女の群狼は、仁義に武力の意義を見出し、この武勲こそ誉れよと奮い立った。

 

 黒い大地が蠢いている。

「まるで津波だ。静かに迫ってきたかと思えば、とんでもない破壊をもたらしてくれる。あれが全て人間だというのも底冷えしますな」

「元、人間ね。もう戻してやれない。終らせてやるしかないわ」

「あの最後尾の火災がモリス・エルドランだと言うんですか?」

「モリスも人ならざる者となった。彼も、彼の軍隊も、もう手遅れ。攻撃を許可する。各個の判断で撃て」

 暗闇の稜線に潜んでいたレレント少佐の砲兵部隊による砲火が一斉に花を開かせ、同時に打ち上げられた照明弾が漆黒の大地を明らかにした。

 地上を埋め尽くす合成体(キメラ)の隊列に対し、矢継ぎ早の砲撃を次々と加えられる。

 重機関銃が火線を敷き、狙撃兵大隊の一斉射撃が間断無く炸裂する。一分一秒を稼ぐ為の全力射撃だ。奇しくも、『殿モーストン』を排出したこの国で、世紀の撤退戦が行なわれようとは何とも皮肉な話であった。

 土地その物を変容せしめんとする勢いで行なわれた攻撃であったが、自我を許されぬ 合成体(キメラ)たちには前進意外の選択肢は無い。

「観測所より通信! 敵、第二梯団が接近中、軍集団多数!」

「観測点を下げるように伝えろ。囲まれる前に放棄せよと」

 通信兵とのやり取りをするモックを横目に、こちらには伝令が駆け込んできた。

「敵第一梯団の左翼が突出しました。敵集団内に変化が認められ、一部が巨大化した模様です。こちらに接近しています。現在戦車中隊が迂回して対応に向かっています」

 モリスも頭を使ってきたということだろうか。もっとも、あのなりで頭があればの話だ。

「中隊を呼び戻せ。丘の影に入る前に無線連絡。巨人は引き付けてから火力で殲滅しろ」

 モックやスタッフたちの怒鳴るような命令と報告の応酬が続く幕下で、ひたすら戦況図の更新作業を行っていたルイズに声をかける。

「ルイズ、戦車中隊と入れ替わりにここを引き上げて。あたしはスタッフを連れて第二防衛線と合流する。撤収の陣頭指揮を執りなさい」

 これまで参謀部志望でありながら雑用仕事ばかりを押し付けられてきたルイズであるが、ここに来て重要な仕事を任されたと察し、それが嬉しかったようで目を輝かせた。

「はい! お任せください!」

 まだ引継ぎ程度の作業だが、迅速さが求められる大事な仕事だ。今の彼女ならば大丈夫。

「モック中佐、移動するわ。モーストンに笑われない鮮やかな尻尾の巻き方を見せてちょうだい」

 彼は逡巡するように一度目を閉じたが、口角を上げ。笑ったのだろう。

「承知しました」

 

 第一防衛線から南東へ向かい、海岸線付近の盆地を前にした第二防衛線での準備が進む。

 ここに着くのと同じ頃、既に指揮所の撤収と、第一防衛線は放棄の報せが飛び込んで来る。彼らは大砲や銃座といった装備をその場に捨て置き、最終防衛線へと移動中だ。

 新たに設置された指揮所では、レイノスを始めとした幕僚たちによる情報の整理が行われていた。

「レヒト中佐ならびにロー少佐、ニール少佐の部隊も準備完了です」

 レイノスからの報告を背中に受け、指揮所の手前にある銃座を占拠するケメットに「まだ撃つなよ」と念を押して幕に入った。

 そしてお手製の〈射撃統制図〉に自陣の配置が示されていることを確認する。

 その図上には、いくつかの緑点が明滅していた。

「試射は済ませたのね」

「もちろん、抜かりありません。これで奴らは一網打尽ですよ」

 そう語るレイノス大尉に、簡単にはいかないと釘を刺しておく。

「少しでも足止めになるなら御の字よ。それで、避難民の方はどうなの?」

「スプートのカーミラが協力を快諾してくれました。そのお陰で一五の町と村落での全住民の避難が行われているところです。我々の輸送車も動員して急がせています」

「了解したわ。さて、そろそろね……」

 その十分後、通信よりも早く〈射撃統制図〉に紅点が発生した。

 観測に着いていた術技工兵(インカンター)によって、彼がタグ付けけした敵の位置がリアルタイムで統制図に同期されていく。

「観測班からです。敵はサイクロプスを前衛に差し向け、戦車大隊規模となりつつあります。後方には複数梯団が集結中。山火事のような巨人が併進しているとの事です」

 続々と〈射撃統制図〉に紅点が発生し、一つの点が一秒の間に何倍にも膨れ上がっていく。無数の点がこぼれたインクのように染みを広げているようだ。それが途切れることなく北方より流れ出し、中央の盆地へと向かっていた。

 だがここで問題が発生する。突出した紅点の移動速度が速すぎた。

「照明弾!」

 外に出て双眼鏡で確認してみると、紅点の正体はサイクロプスであることがわかった。そして彼らは、走っていた。地鳴りを轟かせ、巨体を躍動させながらこちらに向かってきている。

「レヒト中佐に攻撃を始めるように通達! 目標は突出部のサイクロプスだ! ケメット、ぶっ放せッ!」

「ガッテン承知! チョッパァ! 弾を支えるんだニャァ!」

 言いつつケメットは、照明弾に照らされた巨人に狙いをつけるために銃座のハンドルを操作する。傍らでは、彼女が来るまでは射手を担当するはずだったゴブリンのチョッパが、不服そうに大きな弾薬ベルトを抱え上げた。

「本当は俺がやるはずだったんだ。気が済んだら代わってくれよ? この国でやったことと言ったら弾運びだけだったんだぜ。行軍から弾運び、弾運びからまた行軍。もうウンザリしてんだ――」

「耳の仇ぃぃぃヒィィィイ――ッ!」

 三〇リムサント機関砲が火を噴いた。

 金属を打つ炸裂音が連続して続き、据え置き銃座としては大口径である三〇リムサントの強烈な衝撃で、ケメットは発砲の度に頭を前後に揺さぶられて「ニャニャニャニャニャニャニャがニがャニがャんガガガガガガ――――」声が漏れていた。

 曳光弾が軌跡を描き出し、地面に兆弾させながらサイクロプスの行く手に弾をばら撒くと、巨体はズタズタに裂けて転倒した。

 興奮して奇声を上げる彼女の横を、戦車が前進していく。守備隊も各個に攻撃に参加し、敵を押し止めようと必死だ。統制図に示される赤の波が流れ込んでくる。「大佐!」レイノスが逸って声を上げる。

「まだ、まだ引きつけて」

「もう十分でしょう! 突破されます!」

 紅の勢力が中心地にさしかかった瞬間、そこにペンで円を書き込んだ。

 それからの数秒間は生きた心地がしなかった。

 時計の針が進むにつれて、タイミングを見誤ったのではないかという焦燥が生まれ、迫り来る紅い波をジッと見つめる。

 額に汗が浮かび、幕下の者たちが息を呑んで事の推移を見守っていると――飛来音が到来する。

 直後、あたり一面が爆炎に包み込まれた。続けて到来する飛翔音からまた幾つもの大爆発が起こり、盆地は爆風によって洗い流されてしまった。

 まるで古に伝わる炎の剣を振るったかのような威力であったが、人類の破壊の術は神話の域にまで匹敵してしまったということだろう。キルゾーンへと踏み込んだ敵は跡形も無く消え去っていた。

「海の紳士に感謝ね」


∴ ∴

 ラブラスの東部沿岸海域の端に位置する洋上には、砲門をラブラス本土に向けた第八艦隊が展開していた。旗艦オケアヌスの暗い艦橋では、作戦の成功に歓声が上がっていた。

「ようやく魚が釣れたな、見事な物だ。敵が一気に消えたよ。良くやった、艦長」

 感心して賛辞を述べるロブロフに対して、艦長は〈射撃統制図〉を手にして謙遜した。

「このシンクレアからの贈り物があったお陰でしょうな。便利な物です」

「それでもだよ。すっかり我々のことなど忘れてしまったのかと思っていたが、ようやく仕事が回ってきた。さて……諸君、やることはまだあるぞ。この調子で魔族討伐といこう。どんな異形が我々の敵なのか、この目で視れないのが残念ではあるが、シンクレアも『パンドラ』からの贈り物を心待ちにしているだろうからな」

 整った口ひげをピンと張り、統制図に再び現れた紅点を見つめる。

 しかしそれは、これまでの物とは大きさも輝きの強さも段違いだった。

 描画に良くない兆しを読み取ったロブロフが部下に声をかけようとしたその矢先に、伝声管が震える。

「こちら管制室! マナの急激な減退を確認――魔導砲の兆候です!」

 どよめく艦橋にロブロフは鋭い声を通す。

「全艦艇に報せろ! マナ拡散幕(パツシブ・デコイ)撒布!」

 各艦の外装に備え付けられている筒型の発射管から、直ちにキャニスターが打ち上げられると、それは艦の上空で破裂して白銀に煌く滞留物を撒き散らし、船体を覆っていく。

 真紅の輝きを見たのはその刹那。

 ラブラス本土から赤い光の筋が投射され、艦隊を一瞬で薙ぎ払ったのだ。周辺には鉄の焼ける匂いが充満し、海水が蒸発させられて発生した水蒸気のせいで何も見えなくなっていた。

「状況を報せろ!」

 警報が鳴り響き、大きく揺れる艦内で床に倒れていたロブロフは椅子に掴まりながら体を起こした。

 結果は芳しい物とは言えない。

 撃沈した艦は無かった。マナ拡散幕(パツシブデコイ)の効果で魔導砲のエネルギーが分散したため、艦一隻を沈めるだけの力を発揮できなかったのだろう。だが無傷とはいかず、多くの艦で主兵装が損壊、または溶解してしまい戦闘の継続は不可能だった。

 パンドラから火の手が上がるの様子が見えてロブロフは苦りきった表情で呻き、決断せざるを得なかった。

「合わせる顔が無いな。魔女に伝えろ、被害甚大、我々は当海域より離脱する」

 第八艦隊は手傷を負って撤退を開始。

 黒煙を昇らせながら敵に背を見せる屈辱に、歯噛みせずにはいられなかった。


 指揮所を放り出し、第二防衛線の部隊は遁走した。

 着の身着のままといった具合で焼け出されたに等しい状況だった。実際には、とんでもない物を見せ付けられ、指揮官を含めて全員が身の危険を察知して、踵を返し逃げ出したのである。

 炎の魔人が大地を焦がし、盆地へと這い出てきたかと思えば、先ほどの艦砲射撃のお返しとばかりに魔導砲なんて隠し玉を披露してくれたのだ。

 ただ、照準が海洋に向いていたこともあり、第一射から第二射までの間に、逃げる猶予があったのは不幸中の幸いである。

 今頃指揮所のあった場所は焼き払われて、地面は溶解しているに違いない。こうして稜線に隠れながらでなくては、右手の山奥に見えるハルジオ山脈に刻まれた赤い筋からわかるように、存在そのものを蒸発させられていただろう。

 そして、後退に後退を重ねた末の最終防衛線には――何の備えも無かった。

 丘の頂に大きなもみの木が一本生えている他は、装甲車両が数台止まっているだけだ。

 これに一番困惑していたのは、この場で待機していたルイズだった。

「時間は稼いだし、だいぶ距離もとったわ。ルイズ、民間人の避難状況は?」

「ええ、それはもう。あと半時もすれば完了するかと」

「そう、なら良いわね」

「あの、大佐、ここが最終防衛線だと聞かされていたんですけど、大丈夫なんでしょうか。装備も損耗が激しいようですし、我々も第一防衛線を離れる際に装備の大半を放棄して来ました。これで本当に良かったんですか?」

「何も問題ない。あとはあなた達がリリビア州を離れるのを待つだけよ」

 バンカーフラッペの荷台から重い無線機を下ろしてもみの木に立てかけた。

 振り向けば、ますます混乱したルイズの顔が待ち構えている。

「あなたたちがって……大佐はどうなさるおつもりですか」

「殿を務めると言った筈よ。あたしはここに残る」

「そんなッ!」声を詰まらせながらルイズは詰め寄ってきた。

「気でも触れてしまったんですか大佐! 英雄譚になれと仰ったのはあなたじゃないですか! 大佐が残るなら私も残ります!」

 これはどうしたことだろう。

 軍人のくせにあれほど荒事を苦手としてきたルイズが、こんなにも自分の身を案じてくれるとは思わなかった。彼女がよく見せる情けない表情がふと浮かんできて笑みが漏れてしまう。口やかましいところが玉に瑕だが、こんなにも自分を慕ってくれる部下であれば、尚の事死なせるわけにはいかない。

 彼女の手をとってバンカーフラッペの助手席に押し込んだ。

「ルイズ、撤収の陣頭指揮は上手くやれたようね、良くやったわ。カウウィーへ渡ったらリースのことをお願い。あの子きっと泣いているわ。あなたなら小さい子の扱いに慣れているでしょ」

「で、でも大佐……」

 泣きそうに声を震わせる彼女の頬を両手で張った。

 パシンッ、と音を立ててから良く揉み解して、運転席のケメットを見やる。

「出しなさい、ケメット」

「はいニャ!」

 いつも通りの元気な声に笑顔で応えると、一気に加速して遠ざかる車両を見送った。それに続き一緒に後退してきた仲間達が後についていく。彼らと敬礼を交し合いながら、その姿が見えなくなるまで見守っていた。

 最後の車両が視界から消えると、大きなため息をついて丘の斜面に腰を下ろす。

 彼らがリリビアを抜けるまでの間、少しは休めるだろう。

 思い返せば自分は殆ど眠っていなかった。強烈な睡魔に今頃襲われてしまう。もしこんな所で眠りこけてしまったら、どんな童話や小説にも無い間の抜けたオチがついてしまうな。

 そんな事を考えながら、それってちょっとおいしいのではないか? などと不埒な欲求――もとい体を張ったギャグを想像して鼻で笑った。

 ここだけ切り取ってみれば、静かな夜だ。

 小川からカエルの鳴き声やクビキリギスの喧しい音が良く聞こえた。

 風に吹かれたモミの木が、落ち着いた葉擦れの音を添えてくれる。

 野芝のざらつきも柔らかさもいい具合で、目を閉じれば本当に眠ってしまいそう。

 このときだけは、世界は確かに平和であった。


 ろくな舗装がなされていない夜道を車列が砂煙を巻き上げながら疾走している。

 ライトを点灯して、形の悪い道に悪戦苦闘しつつも、決して速度を緩めはしない。端から見れば急がなくてはならない強迫観念に囚われているような、尋常ならざる光景であった。

「ケメット、どうしてこんなに急いでいるのよッ、事故を起こしちゃうわ」

 巧みにシフトレバーを操作しつつ、車列を追いかけるケメットは何かに気付いて「そうでした」と合点がいった様子で答えた。

「ルイズ中尉は最近入ったばかりだから知りませんでしたニャ」

「何がよ?」

「不思議に思われませんですか。どうして大佐が賢天の魔術師(サージオ)なのかを。他の賢天の方々は、その称号を得た魔術である賢天の秘奥(サージェイト)でもって、戦功や成果を上げておりますのに、大佐はろくに魔術を使われませんのニャ」

「それは、使うほどのことが無いからではないの?」

「違いますニャ。あの魔術……と言っても、ウチも良くわかりませんし、それを直に見たことのある人はきっと居ません。ただとても使い辛いものらしく、精霊の法である精霊圏の束縛を破ることが出来る反面、魔術の影響が精霊圏全域にまで及んでしまうらしいのです。だからこそ仲間や民間人が居るのはよろしくない。それをわかっていますから、皆こうして急いでいます。幸い、リリビアとカウウィーは精霊圏が異なる。大佐の身を案じるのなら、一刻も早く邪魔にならない場所に移らなくてはなりませんニャ」

「そうは言ってもあの大軍に――あんな化け物まで居るのよ? 私の知っている賢天の魔術師(サージオ)たちの能力でも相手が出来るとは思えない」

 大地を埋め尽くすほどの軍勢に、巨大な炎の魔人を思い浮かべる。

 それはまるで絵本の中で世界に災厄を振り撒く魔王軍の光景だ。暗黒大陸の領主たちが再び人類に牙を剥いたとしたら、きっと今日のような光景であるに違いない。

 なんだかんだと文句もあったけれど、自分はシンクレアという人が好きだった。あんなに好ましく思える上官にはそうそう巡り合えるものではない。いや、きっと今後一生出会うことはないような気がする。あれは唯一無二のハチャメチャな上官だ。今生の別れともなれば、涙を流すくらいには彼女のことを慕っていると思う。

 すると、ケメットが隣で肩を震わせながら小さく笑って、それから不適な笑みを作った。

「ではルイズ中尉は今日知ることになるのでしょう。〝我々〟のシンクレアが、世界に冠たる本物の賢天の魔術師(サージオ)であるということを!」




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