第四章 賢天の魔術師 5
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軍事作戦において被害を殆ど受けずに勝利する。それは真に喜ばしいことである。
兵士達を生きて祖国に帰してやることが出来るし、期間内に作戦を終え、こちらが有利となる講和を結べるのは営利戦争という国策に適うものだ。
アルビオンが理想とする、覇権国家体制にも大きく寄与することだろう。
ただし、それが成り立つには非常に繊細な仕事が求められる。
決して国民感情を過度に刺激してはならないのだ。
『殺しすぎるな』
『奪いすぎるな』
『責めすぎるな』
この営利戦争三原則を一つでも破れば、この戦争形態は維持できなくなる。
殺しすぎれば民の反発は必至となり、奪いすぎれば取り戻そうと躍起になる。そして敗戦の混乱を避け、立ち直りを早めるには為政者を責めず、限定的な取引だけを持ちかける。
これらを暗黙の了解とするのが、アルビオンが一〇〇年に渡り世界に植えつけた戦争であり、営利戦争の不文律であった。
先頭を行く馬車の速度に合わせて、バンカーフラッペと一台の車が後に追随する。
馬車にはもちろん、モリスとリースが乗っている。
ただの親子なら気に掛ける事も無いが、あの二人は別だ。リースは言わずもがな、その父親も重度のストレス障害を患っている嫌いがある。その考えを払拭できず、胸の奥で鉛のように重いもどかしさが積み重なる。
モリスは全軍で町に来て、その目で確かめて欲しいと言っていた。
彼は多くを語らないばかりか、仔細聞き出そうにも事細かな点の説明をあえて避けている節も見られる。拷問にかける正当性も無く、モリスは未だに保護対象だ。
早急に次の行動を決める為にも、彼の真意を確かめる為にも、トマーウェルには必ず行かなければならなかった。そこで部隊の大部分をブンスローに残し、ケメットとルイズを連れ立ち、制圧したという首都の視察へ赴くことになったのである。
護衛として、バリー大尉率いるナルン・エッヂ選抜隊の五名を同行させていた。
警護の関係上、誰か一人だけでもナルン・エッヂを入れる必要があったので、バリーだけが再び女の園に邪魔する形だ。それを彼の部下達は妬ましい思いで眺めては交替を申し出たり、揶揄してきたりと茶化して来るのだが、当のバリーは女達に囲まれて居心地が悪そうだった。
「ウチはどうにもあの御仁が苦手です」
顔をしかめたケメットは先を行く馬車を見つめてハッキリとそう言った。続けてルイズもこれに同意して、不気味であると言うのだ。
「大佐、賢天の魔術師って皆ああなんです?」
意図しているの否か、賢天を一括りにして蔑視するルイズに米神がヒクついた。
「ケメットもだけどあなたも大概よね、ルイズ。いい度胸だわ」
自分の過ちに気付いたルイズは顔を赤らめながら「違うんです! そういう意味ではなくてですね……」まごまごとした釈明を聞き流していると、バリーが生来の堅物さを前面押し出した濃い面持ちで尋ねてくる。
「大佐、毎度のことですから無理をして突出するなとは言いません。しかし第一戦闘大隊を率いてトマーウェルに乗り込んだ方が良かったのでは? 罠の可能性が有ります。エルドランの行動は不可解だ。宣戦布告より前から連絡は途絶えていたようですし、我々が目前にまで迫った時点でひょっこり顔を出してきた。彼はラブラスに協力して、我々をおびき出そうとしているのかもしれない。百歩譲って、トマーウェルやラブラス軍を制圧していたとしても、何故知らせなかったのか。レッドシール基地があるのは彼も知っている筈です。それに領事館の職員たちはどこへ消えたというんですか?」
その疑問の答えを自分は持っていない。
バリーの言うことは良くわかるし、話を戻せばケメットとルイズの感想にも共感できる。
「モリスを信用しているわけじゃないわ。でも確かめる必要があるのはわかるでしょ。彼が何かを企んでいるのなら、尚のこと部隊を連れて行くことは出来ない。最悪あたし達が死んでも、モック中佐が指揮を引き継いで仇を討ってくれる」
問題無いでしょ? と、ある種の潔い考えを明かしてやると、そんな覚悟の無いルイズの顔が青ざめて「冗談ですね? ね? 大佐?」と肩を掴んで揺さぶってきた。
お家の再興を胸に、軍隊に飛び込んだ彼女の野心には申し訳ないが、死ぬ時は死ぬし、諦めて貰いたい。情けない声で縋り付くルイズを面白がってケメットは「二階級特進ですニャ」と怖がらせていた。
速度を抑えたバンカーフラッペが、時折エンジン音をくぐもらせて不調を訴える。
馬車の後塵を拝する屈辱に身もだえするかのような変調は、主に路をかっ飛ばしたくてうずうずしているケメットの運転の所為もある。
落ち着かない挙措で幾つかの丘を上り下りして、倒壊しているレンガ造りの家を通り過ぎ、小川の掛かる小さな石橋を渡ると、牧場の囲いが現れ始めて民家も多くなった。それでも家畜や人の姿は無く、風に吹かれてさざめく杉林のトンネルを潜っていく。
陽は傾いているはずだが、空は分厚い雲に覆われたまま。
灰の天蓋には黒い帯が幾筋も引かれ、暗闇に蝕まれているかのようで不気味だった。
そして最後の丘を越えたその先に、ラブラス共和国の首都『トマーウェル』が静かに横たわっていた。
丘を下って農地を過ぎれば直ぐに集落へと入る。
この辺りから既にトマーウェルと呼んでも差し支えない町並みが続いた。しかし、小綺麗な町が遺されていたブンスローに比べるまでもなく、街は荒廃していた。
民家や道路の荒れ具合から、見るからに交戦の痕を窺い知る事ができた。窓ガラスは無残に散らされて、弾痕の痕が扉や玄関アプローチの手すりに穿たれている。道路や建物にこびり付いている黒い汚れが随所に見られ、その度に眼が引かれてしまう。
これまでのラブラスとは明らかに異なる空間に身を置いて、皆が息を呑んでいた。
トマーウェル南部は開発途上地域なのか、新築と見られる真新しい民家や、建設途中の作業現場が散在している。もっとも、今は雨風に曝された土台が虚しく放置される空き地でしかない。
この一帯はトマーウェル全体から見れば小さな街だ。
例えるならばここは扇の持ち手、要の部分に当る街区で、ここから北に向って扇状に広がる大都市が形成されている。そして南部には、東西に走る大きな河川――サザーリン河が流れ、これより以北を繋ぐラブラス大橋が渡されている。戦略上、ここが首都防衛を握る最後の要害と判断できるが、驚いたことに、このラブラスでは珍しく、その視点は支持されているようだった。
「行き止まりですニャ」
ケメットが呟いた通り、前方に架かる橋には、少なくとも車両が通れる余地は無かった。
なぜならば――。
「ここからは歩いて行くことになります。大丈夫、ご安心ください。徒歩でもそう遠くありません。それに私の作品を見て頂くにも好都合だ。少し散らかっていますが、何れ片付けさせますのでその点はご容赦を」
高ぶる気持ちを抑えきれないといった様子のモリスは嬉しげに語り、リースの手を引いて橋を進んでいった。その橋上には、幾つもの障害物が山となって積み上げられている。
馬車の荷台や露天で使われる商品棚、自転車や空の木箱、それに小型の船までもが所狭しと置かれているのだ。
「まるで伏魔殿の入り口だ……」
そう零すバリーに、ゴブリン族の通信兵コリゴリンが笑った。
彼は大きな鼻で深呼吸をすると、重たい通信機を背負っていても軽々とした身のこなしで木箱に飛び乗る。
「へへ、そこまでわかっていながら、どうして付いて行くんです。こいつはどうも良くありませんよ。町と人が焼けた臭いがしやがる。腐臭も鼻につくが、むせ返るほどの瘴気が充満してらぁ。ねぇ大佐、帰りましょう」
おどけた調子で既に決まった話を蒸し返すコリゴリンの鉄帽をパチンと叩き、モリスの後を追う。
「あなた達ナルン・エッヂの育成に年間いくら掛かってると思ってるの。一騎当千の兵であってくれないと、割に合わないわ」
「……仕事量の割には給料が少ない気がするんだよなぁ」
口を尖らせて不服そうにしている彼の鉄帽を、後続の仲間たちが次々と叩いて通った。まるでそれが慣習であるかのように立て続けに来るものだから、彼は木箱から落っこちてしまった。
雑多な障害物に占領されたラブラス大橋を渡り終えると、古めかしい凱旋門が出迎えてくれた。ささやかな入場を終えた先には丁字路があり、噴水広場が目に入る。特に荒れている訳ではないが、人が居ないというだけで少し埃っぽく見える。
一行はそこを右折し、しばらく道なりに歩き続けたていたが「ヒャッ」と可愛らしい悲鳴を上げたルイズがケメットに抱き、皆が一斉に銃と術式杖を構えて歩道沿いの建物を警戒した。
「何も無いじゃない」見たところ人影は確認できない。
小心者のルイズのことだ、タウンハウスの暗がりから何かを想像して、一人で怖がっているのだろう。彼女の取り越し苦労だと判断して先を進もうとしたとき、「お待ちください」とケメットに袖を引っ張られた。
「居ますニャ。沢山、居ますのニャ」
ケメットの頭が信頼に足ることは少ないが、その耳は十二分に有用だ。
改めて目を凝らし、周囲の状況を窺った。
道路沿いの集合住宅の多くは、戦火の嵐に吹き抜けられた有様を色濃く残し、住民の気配などまるで感知できない。ネズミか何かの足音を聞き間違えたのではないだろうか。そう思っていると、モリスが振り返って意味深な笑みを浮かべている。
彼は片手を上げると、パチンと指を鳴らす。
それが合図だったのか、路地から一人の男が歩いて来た。だが千鳥足で歩み寄るその人物は、果たして――人間と呼んで良いのだろうか。
彼の物と思われる衣服は内側から盛り上がる灰色の肉体によって張り裂け、靴は足首にその残骸を引っ掛けているだけだ。両腕は左右で大きさが異なり、人の面影を残す右腕に対して左腕は大きく膨れ上がって地面に付くほど肥大化している。そして顔は変形して口角が異常に深く、口内の赤い粘膜が空気に曝され、右の眼窩は広がって眼球が落ち窪んでいた。
彼と呼ぶ事も憚られそうな怪物を前に、銘々言葉を失った。
代わりに、底冷えする悪寒と、我慢ならない嫌悪の波に押し流される。その怪物がモリスに、そしてリースに近づいていることを理解して、いち早く動揺から立ち直ると拳銃を引き抜く。
ところが「お待ちなさい」とモリスは発砲を戒めてきた。
「モリス! これはどういうことなの。そこに居るのは魔族だ!」
「そう、魔族だ。そうとも言える――」
暗い瞳を鈍く輝かせた彼は怖じることなく怪物の肩に触れた。触診でもするかのように体の状況を検めると、そのまま素通りさせてしまう。目の前で起きていることが信じられずにかぶりを振る。
「あなたはそれを魔族だと。ならどうして襲われない? 魔族は人間の言いなりにはならない。だから国際条約でも魔族召喚は禁忌とされている。何がどうっているの」
喉の奥を振るわせるように彼は笑うと、誇らしげに胸に手を置いた。
「驚かれるのはまだ早いですよ。こちらへどうぞ。〝彼ら〟も、そろそろ帰宅する時間だ」
不気味な水先案内人に導かれてやってきたのは、ラブラス最大のウィルク教建築である『ビラム時計大聖堂』だった。この町一番の巨大建築物である大聖堂の前面には、巨大な時計が突き立ち、ウィルクの割菱を天に輝く星の如く頂上に掲げていた。
ビラムの大きな時計盤は間もなく五時を指そうかというところ。
皆は訝しみながらもモリスの後に続き、大聖堂の広い階段を上がった先にある踊り場に集まり、教会前の広場と大通りを見下ろした。
「時間だ」その声の後、大聖堂の鐘が、灰色の町に響き渡った。
そして――トマーウェル市民たちが大挙して姿を現したのだった。
北の路地から行列がやって来たかと思えば、周囲の建物からも市民達が群れを成して溢れ出てくる。あれだけ静かだった街はたちどころに群集の足音に包まれていく。
特質すべきは、彼らの中に誰一人として人間と呼称できそうな形を持つ者が居ないことだろう。
絶句するしかないこの光景の中、ケメットの呟きは真に的を射たものであった。
「百鬼夜行だニャ」




