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第四章 賢天の魔術師 1

第四章 賢天の魔術師


 発 アルビオン中央即応軍 特殊戦闘群 作戦室〇〇〇番

 宛 ■■■■・■■■■■■

 以下の者に任務の更新並び要請への返答を記す


 アルビオン王国陸軍大佐  ■■■■・■■■■■■

 貴官の任務に大筋の変更は無し。但し、現地調査を行った上で確認された障害には、必要に応じて貴官の持てる全ての力を動員し、状況の終息が行われる事を期待する。

 調査団の派遣については、貴官が危惧する問題は起こりえないものと承知している。

 王国が望む結果が達成されることで、問題は解決され、障害は存在しないものとなる。

 作戦所要期間も残り僅かである。可及的速やかに任務を達成せよ。

 本件に付随して、工作活動の懸念がある為以降の長距離通信を禁ずる。

 ウィルクの神と精霊たちの加護があらんことを。

 尚、本命令書は読了と同時に焼失する。


 小さな爆発が起きると共に命令書に火がつき、瞬時に灰すら残さず消え去った。

 天幕の中で将校達に見守られながら、今しがた目に焼き付けた文書の内容が頭の中で繰り返される。

 それがどういった意味であるのかを検分し、精査し、重ねて反芻していく。 

 いま自分はどんな顔をしているだろう。

 きっと禿げ散らかした上官の頭部に、僅かながら生息している絶滅危惧種を根絶やしにした上で、ヤスリを掛けてやりたいという思いが滲み出ているに違いない。

「あのハゲ許さん」開口一番にそんな事を口走ったものだから、その場に居合わせた将校たちの脳裏にはカトー准将が思い浮かんだことだろう。気弱な見た目で意志薄弱な印象が付きまとう男ではあるが、上からも下からも責められる中間管理職にありながら、自らの意向を押し通すことで有名だ。

 上からの命令には自分の構想を巧みに織り交ぜ、下からの突き上げには、平身低頭しながら躱し続ける処世術を兼ね備えている。

 彼に対し尊敬の念こそ持たないが、非魔術師でありながら賢天を御し続ける手腕は見事なものだった。自分も今まさに、任務遂行を心に決めてしまったのだから。諦念とも言う。

「大佐、上からはなんと?」

 ここ暫く見ることの無かったモック中佐が、その面長の険しい表情で視線を寄越す。

「命令に大きな変更はない。調査団は断られた。我々はラブラス攻略を続行する。どの道、これ以上遠回りする余地は無いでしょう。トマーウェルは目と鼻の先。今日中に片をつけるわ。会議を始めて」

 モックは立ち上がり、近状報告から手をつけた。

 その最中、先の命令書でいくつかの文言が頭から離れなかった。

 『工作活動の懸念』とは、虐殺報道に他ならない。

 この身に覚えの無い報道が工作であるなら、誰の手によるものなのか。

 ラブラスによる線を考えると、体を張ったギャグにしかならない。まさか同国人ということも無いはずだ。アルビオンの評判が落ちる以外に得るものは無い。となれば第三国の存在が浮き彫りとなる。

 だがその特定には、手持ちの情報では不十分だった。当たりはつけられるが確証は無いし、追求も出来ない。

 次に、新たに加えられた『貴官の持てる全ての力を動員し』である。

 このような書き方は不自然なように感じる。

 〝どこが〟と明確に指し示すことは難しいが、文言以上の含意があるような気がしてならない。

 杞憂であるならそれに越したことは無いが――この奇妙な戦争がそう思わせるのかもしれない。

 ただ一つ、確信めいたものが心の中に芽生える。それは、上層部が何か決定的なことを隠しているということだ――。

 どこもかしこも、どいつもこいつも、隠し事ばかりでウンザリさせられる。

「失礼します」隣の天幕で仕事をしていた本部付きの中尉が入ってきた。

「第一戦闘大隊より定時連絡。トマーウェルより南西『ブンスロー』を確保したとの報告がありました」

 その兵士をモックが睨みつけて「会議中だぞ」と静かに叱責する。だが兵士はそれに怖じることなく続けた。

「ブンスローに敵兵は確認できず、住民の姿も見当たらないとの事です。失礼しました」

 この報告に疑問を抱いたらしい将校たちは思案顔だ。

 彼らの頭に生じる疑念は、いくつもの戦史を研究し、体験してきた者なら当然のこと。首都に一番近い町に、人が一人も存在しない。これは戦争に際して、住民を疎開させることで良くある話ではあるが、敵兵が居ないというのはそれ以前の問題だ。

 首都が陥落するという事は、その国の中枢が陥落するいう事に他ならず、それを守る最後の拠点である筈の町がこの有様では、敗戦を認めたようなものではないか。

 だがこのラブラスに於いて常態化しつつある異常に、常識は通用せず、誰も驚きの声を上げない。

 ただ解せない、そんな気難しい顔を並べるしかなかった。

 やおら立ち上がり、皆の注目を集めると命令を下す。

「この場に司令部を移設する。ブンスローの外郭をロー少佐とニール少佐で固め、奇襲に備えて。あたしはレヒト中佐と合流し、トマーウェルにアプローチを掛ける。モック中佐は不測の事態に備え、この場をいつでも畳める様によろしく。行くわよケメット、ルイズ」

「はいニャ!」元気に答えるケメットの傍ら「私もですかぁ?」と情けない声のルイズ。

 彼女は直属の上官であるモックに助けを求めるように伺い立てるが、彼は目を伏せて手を振るだけ。

 行ってしまえという意味合いのぞんざいな扱いに、彼女は肩を落としてトボトボ後を付いて来るのだった。


∴ ∴

 モリス・エルドランという魔術師の半生は、決して華々しくはなく、壮絶な物語を秘めてもいない。

 かといって、平凡や安穏といった人生を送ってきたわけでもない。

 三〇半ばになるまでの間、職を転々とし続けた。

 自らが信じる召喚の魔導を極めることに心血を注ぎ、研究に当てる時間を捻出するために生活を切り詰めた。一切の娯楽を排し、短期契約の霊薬調合士として働いたり、時には肉体労働にまで従事した。

 全ては魔術師としての到達点――『賢天』の称号を得るためだった。

 それほどまで研究に熱心ならば、大学や研究機関に勤めれば良かっただろう。

 だがそういう声も、定員数と才能の二重に反り立つ壁の前では叶わぬ事であった。

 だが彼は諦めなかった。

 自分を律し、無慈悲な外野の声を退け、魔導を求め続けた。

 そして苦節二十年、遂に一つの頂点に手が届いたのだった。

 〈複合練成召喚(コンペルチオネ)〉と名づけられた唯一無二の『賢天の秘奥(サージェイト)』を編み出し、賢天評議会の審査と枢密院の承認を得て、アルビオンでは一二枠しかない賢天の魔術師(サージオ)の座に着いた。

 モリスの人生は一転した。

 賢天の魔術師(サージオ)となったことで、彼は多くの権利を手にした。

 無名時代では想像もつかない程の潤沢な予算が与えられ、より研究に没頭できる環境を整える事ができたのだ。

 同時に、権利を有する者には須く義務が負託される。それはモリスも逃れられぬ決まりであった。

 賢天に課せられた義務の一つが、属国の監視・または総督府に於ける軍事力の役割を果たし抑止力となることだ。軍人ではない彼には監視官としての任が与えられ、アルビオン影響下にあるラブラス共和国に滞在することになった。だがそれは些細なこと。

 賢天の称号によって得た物に比べれば、その程度の義務など軽石にも等しい。

 賢天の名声は絶大な力の象徴となって公私共にモリスを助けてくれた。

 それは捨て去った青春すらも取り戻す力を持っていたのだ。

 これまで縁の無かった社交界にも招かれる機会が格段に増え、とある宴席で出会った貴族の娘に恋をした。

 彼女の名前はミコットと言い、自分より一〇以上も年若い美女だった。

 モリスは積極的に話しかけ、幾度かの逢瀬を重ねてプロポーズした。

 これを快く受けたミコットと結婚し、長女リースの誕生もあり、私生活も順風満帆であった。

 以前ならば町娘にすら声も掛けれず、見向きもされない冴えない男が、賢天の称号を得た途端に、周囲の目の色や臆病な自分に変革をもたらした。多くの人々からの賞賛と尊敬を集め、自分の生き方に自信を持つことが出来た。

 賢天の魔術師(サージオ)となり、より〝らしく〟在ろうとして地位への執着を強めていく。

 人生のすべてが好転し、何一つ憂いの無い未来を築くことが出来る。自分の努力は無駄ではなかった。志した目標は正しかった。ここに居れば、皆が認めてくれる。


賢天の魔術師(サージオ)は、私に人生を与えてくれたのだ――」

 執務室に舞う塵が西日に照らされ、朱に染まる身体から項垂れた影が弱弱しく吐露した。

オボロが同意を示す。

テーブルの上に置かれた大判の封筒に目を落としながら、再びそれを差し出してきた。

「ならば尚の事、手段を選ぶべきではないだろう。このまま使えという話ではないのだ。モリス、君ならこの魔術を正しい道に昇華させることが出来るよ。現状のままでは、君の《複合練成召喚》は用途に制約が掛かりすぎる。二つの召喚対象を高次元世界より喚び出し、出口を一つにすることで練成する合成体(キメラ)生成の(わざ)だ。だがこれは高位とされる召喚獣に使用することは国際魔術師条約の『神聖を侵すべからず』に抵触している。大々的な使用は不可能。だからと言って、下位召喚ばかりでは物珍しいだけで評議会の目を惹くのはもう出来ない。だからこそ――」

「だからと言って、この文献に記されているのは魔族の研究だ。それこそ条約に反する行いじゃないか」

「モリス、この資料を読んだのならわかるはずだ。そもそもなぜ魔族の使役が禁じられているのか。それは奴らが人の命令に従わないからだ。それは使役できていないということだよ。だがそれが可能だとしたら? 魔の眷属の力を自在に操れるとしたら? これはそういった主旨の研究だ。もしこれが完成したのなら、君は不動の地位を築くことが出来るだろうよ。歴史が変るかもしれない」

 それに、とオボロは一呼吸を空けて、フードの奥から怪しい瞳を輝かせる。

「もう解読してしまったんだろう? あの難解なパズルを解き明かした。君は人類史上未踏の地へ踏み込むための地図を手にしたんだ。違うかい? だから怖気づいている。誰も到達し得なかった領域へ踏み込むことに戸惑っているんだ」

 返す言葉が無い。

確かにその通りだった。オボロの祖父が遺した研究は、何の抵抗も無くこの身に吸収された。この魔術を自分の賢天の秘奥(サージェイト)に組み込むことは理論的に可能だ。

 しかし、今のままでは『災禍の箱(パンドラ)』を開けることになりかねない。

「少し、考えさせてくれ。首の皮一枚繋がりそうだというのは実感じている。改善案を模索してみたいんだ」

「私に断る必要などないよ。決めるのは君だ。さて、そろそろお暇しよう」

「ありがとう、オボロ」

 鞄を手に席を立った黒衣の魔術師であったが、急に辺りを気にしているような素振を見せると、徐に口を開いた。

「モリス、これは言おうか言うまいかと悩んでいたんだが、やはり友人に隠し事は出来ない。君は、ミコットが外で何をしているか知っているのか?」

 唐突に上がった妻の名に当惑する。

 これまで彼はミコットのことなどまるで気に掛ける事も無かったというのに。

 若干の不安に駆られながらかぶりを振って否定した。

「あれは見間違いでなければ、彼女の筈だ。ここ最近、中央公園で何度か出歩いているのを見た。市内で活動している、人気の劇団俳優と一緒にね」

 ちくり、と心臓に一針が突き刺さり、血が滲む様にじわりじわりと悪寒が広がっていく。

「何を、なにを馬鹿な……見間違いだよオボロ。ありえない、彼女に限って……」

 彼女に限って、何であろうか。

 ここ最近の夫婦関係は冷め切っていた。会話は無くなり、受け答えも事務的なもの以外殆ど無い。

 思い返せば外出する時はいつも着飾り、どこへ行くのか訊いてもはぐらかされてばかりだ。帰りが遅くなり、夕食を一緒に摂らなくなって何週間だろう。自分が寝入っている間に彼女が帰ってきたことも一度や二度ではない。

「オボロ、他人の空似だよ。そんな、彼女が不貞を働くなんて――」

 するとオボロは手を前に出してこちらを制止させると、空いた手で口元に人差し指を立てた。

 そしてゆっくりと扉に近づくと、勢い良く開け放った。

「おや、いけないな。淑女が立ち聞きだなんてはしたない真似をするものじゃあ無いよ。ねぇ、リース」

 扉の前に立っていた小さな影はリースに相違ない。

 しかし何か様子がおかしかった。

 彼女は全く物怖じすることなく、長身のオボロを見上げていた。驚きの声も上げず、言い繕うこともせず、据わった瞳で目の前に立ちはだかる男を観察していた。

「あなたは虹色ね。本当の色を別の色で隠している。悲しい色だわ」

 奇妙なことを口走るリースを目の当たりにして、ハッと我に返った。

「リース、ダメじゃないか行儀の悪いことをして。オボロのことは知っているだろう? お父さんの友達だ。ちゃんと謝りなさい」

「ふふ、構わないよモリス。この子は賢い。賢いね……将来が楽しみだ」

 彼はリースの頭を撫でてやろうと手を出すが、最愛の娘は失礼なことにその手をすり抜けて部屋に駆け込むと、自分に抱きついてきた。再三に渡る不躾な振る舞いを叱りつけようとするも、口を尖らせるのは彼女の方だった。

「わたしが先よ。わたしがお父さんと先に約束したもの。今日は本を読んでくれるって。お庭でお茶とケーキを用意して、新しい魔導書の物語を読んでくれるって!」

 そう言えば、そんな約束をしていたかもしれない。

 最近はいつも一人で本を読んでいるか、給仕のソニーが相手をしていた。母親のミコットはいつの日からかリースを構わなくなり、自分はと言えば、その妻と同じく研究に没頭するあまりに娘の存在すら気に留めていなかった。これではいけない――そう思ったからこそ、休日くらいは娘の相手をしてやろうと親子で過ごす事を約束をしたのだ。

 しかし現実は煩わしい事が多く、日を追うごとにこの身の精神はすり減っていく。賢天を追われれば全てが終る。今の生活を守る為には、他の些末な事に係う余裕など欠片も無かった。

 そんな葛藤を知ってか知らずか、オボロは微笑を湛えていた。

「息抜きは必要さ。すまないねリース、親子の時間に割って入ってしまったようだ。後は二人でごゆっくり。だが、惜しいな……君がもっと早く産まれていたなら、結果は変っていただろう」

「オボロ……何の話しをしているんだ?」

「こちらの話しさ。未来は既に決まっている。何にせよ、君は賢天の魔術師(サージオ)だ。どんな苦難だって乗り越えられるよ。その力が有るからこその、天に戴く称号なのだから」


 全てを忘れて静かに過ごそうとしても、それは無理な話しだった。

 一分一秒が惜しく感じられ、何かをしていないと自分を保てない。有りもしない幻覚と幻聴が自分を責め苛んでくる。

 その場に居ないミコットの冷たい視線に怯え、ありもしない給仕たちの嘲りが聞こえてくる。夢の中では評議会から解任を言い渡され、網膜の裏には蔑みと嘲笑が張り付いた。

 寝ても覚めても悪夢に囚われ、影に怯え続ける。

 次第に何が現実で何が空想なのかの区別もつかなくなり、精神は極限まで疲弊していく。

 だが、こうした暗鬱たる日々は唐突に終わりを告げてしまうのだった。

 それは麗かな陽光が降り注ぐある日の午後。

 モリスはこれまで溜め込んでいた憤りを遂に抑えきれなくなり、自室で外出の身支度をしていたミコットを問い詰めた。

 最近の慣習としてそれに倣い、外出をしようとしていたミコットは夫の様子など気に掛けてはいない。それは以前からだが、そもそも彼の心を推し量る術を彼女は最初から持ち合わせてなどいなかったのだ。

 「何処へ行く」その問い対して「あなたには関係ない」という冷めた言葉の応酬が続き、いつもならばこのやり取りで簡単に折れるモリスが、その日に限っては食下がった。

 彼の変調が気に食わないミコットは、早々に押し問答を切り上げて出て行こうとする。

「何も知らないとでも思っているのか」

 怒りを押し込めた彼の調子から、事態を察した妻は尚も強気に嘯いた。

「探偵でも雇ったの? 影でこそこそして、男の癖にみっともない」

 悪びれた様子など全く見せない彼女に、胸が張り裂けそうなほどに憤りが膨れ上がる。

 なぜ彼女はあんなにも冷たい目で自分を蔑む。

 どうして赤の他人のように扱う。

 彼女も自分の窮状をわかっている筈だ。

 夫婦ならば互いに手を取り合い助け合うものではないのか。

 どうして――どうしてこんな裏切りが働ける。

 煮え滾る怒りの炎が身体の内で燃え盛り、今にも有らん限り力で叫びだし、みっともなく物に当り散らしてしまいたい。破壊衝動に突き動かされそうなのを、寸でのところで押さえ込んでいるモリスであったが、ミコットはここに至っても彼の心情を慮る素振など微塵も見せず、神経を逆撫でする言葉で詰り続けた。

「もうウンザリ。あなたって本当にツマラナイ。臆病者だし、楽しいことは何も知らないし、人付き合いだって下手糞。それがあたしに恥をかかせているのがわからないの? それだけならまだ良いわ。でも女の気持ちが全くわかってないのは最悪。女が欲している物を何も理解していない。そりゃそうよね。三〇まで童貞だったような男にそれを求めるだけ無駄だったわ。ごめんなさい。でもね、ケリーは違う。あなたみたいに臆病者じゃない。皆から慕われていて、リーダーシップもある。オマケにハンサムだわ。欲しい言葉をいつだって掛けてくれる。愛を囁いてくれるの。わからないでしょ。彼の逞しい腕に抱かれているときだけこの胸が高鳴る。ほんと、あなたなんかと結婚するんじゃなかったわ」

「――黙れ……」

「なに? 聞こえない。言いたい事があるならハッキリ言いなさいよ! そうやってウジウジして、本当にイラつく。臆病なうえに根暗で魔術のことしか頭にない魔術オタク。あ、でもその魔術にすら見捨てられそうなんでしょ? なんて哀れな人なのかしら――」


「あなたってほんと――何も無いのね」


 この時、モリスのズボンのポケットには、護身用の回転式拳銃が収まっていた。

 これは誰にとっての不幸であろうか。ミコットか、モリスか、あるいはこの二人を含めた全ての者達にとっての不幸であったのかもしれない。

 気付けば彼は銃を引き抜き、数瞬の躊躇も無くミコットの眉間を撃ち抜いていた。

 暫くの間、仰向けになって床に倒れた彼女を呆然と見つめ、後頭部から流れ出るミコットの血が徐々に広がり、あたかも彼女が真っ赤なベルベッドの敷物の上に横たわっているかのようで、美しさすら感じた。しかし驚愕のままに凝り固まった彼女の死相を直視して、モリスは現実に打ちのめされた。

 だが彼には後悔の猶予も与えられない。

 銃声を聞いて駆けつけた女給にその現場を目撃されてしまったのだ。震える声で「違う、違うんだ」などという弁解は全く用を成さず、彼女は悲鳴を上げて逃げ出した。

 恐慌に陥ったモリスは追い縋り手を掛けるように逃げる彼女の背中へ向けて、凶弾を穿ってしまう。

「あ、ああ……あああ――」

 体から熱が一瞬で消え去り、モリスは自らの所業に恐れをなし氷のように冷たくなった。

 それこそ眼前に横たわる死人のように凍りつき、震えの止まらない手が銃を取り落とす。悪いことに、この騒ぎで使用人達が何事かと集まり、屋敷に恐怖と混乱が巻き起こった。

 逃げ惑う使用人たちに手を伸ばし、目には涙を浮かべる。

「待て、待ってくれ。こんなつもりじゃ――」うわ言の釈明が自然と漏れ出る。

 思考は真っ白になり、もう何も考えることが出来ない。

 評議会を納得させる為の魔術の構想は言うに及ばず、ミコットの不貞や侮辱に対するこちらの言い分も、何もかもが吹き飛び頭の中は更地になっていた。そのくせ、これから自分に降り掛かるであろう仕打ちや法の裁きだけは、具体的に想起されて駆け巡り、精神が完全に瓦解してしまいそうだ――だと言うのに、彷徨うような覚束無い足取りや、崩壊に向う心が次第に落ち着きを取り戻し始めていた。


『君は賢天の魔術師(サージオ)だ』


――そう、私は賢天の魔術師(サージオ)だ。選ばれし者の一人だ。


『どんな苦難だって乗り越えられるよ』


――ああ、そうだった。私にはまだ魔術が有る。他の全てを喪っても、魔術があった。


『その力が有るからこその、天に戴く称号なのだから』


 ――障害など初めから無かった。賢天以上のものなど、この世界に存在し得ない。


 心が反転し、人生が裏返り、倫理を超越していく。

 モリスは泣きながら笑った。これほどまでに簡単な答えに何年も苦しんでいた自分が馬鹿みたいだった。精神の不可侵領域を、驚くほど容易に踏み越えていける。

 通路を行く間際、子供部屋で身を寄せ合う影が目に入った。我が最愛の娘と、気まぐれに雇った半獣人の女だ。震える半獣人が庇うように抱き留める愛娘と目が合う。

「大丈夫だよ、リース。お父さんはもう大丈夫。だってこんなにも――快いのだから」

 

 リースはただ見つめていた。

 止めどない涙を流しながらも、一条の光に繋がれ希望を見いだしたかのように喜ぶ父の姿を。

 抑圧から解き放たれて、清々しい程に晴れ渡った笑みで力に酔う父の背中を。

 だがこの無垢な少女は知っていた。

 父が愛し囚われた魔術が、悲しみに染まっている事を。

 悲しい嘘の色が、大地を染め上げてしまったことを――。




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