序章 2
2
――というのが昨日のことのように思い出せる。
乾燥しきった砂塗れの大地を恋しく思うわけは無いのだが、こうして教壇に立ち、陸軍学校系列の幼年学校で子供達の相手をするのは別の意味で骨が折れる。
小さな怪獣たちが織り成す喧騒の中、再三に渡る注意も彼らにはまったく通じない。
「うるさーい」「だまれー」「しずかにー」といった声は虚しくかき消されていく。
最近、婦人会で話題となっている学級崩壊というやつだろうか。
アルビオン婦人報のお悩み相談コーナーにも取り上げられていた。とにかく舐められてはならぬ、という話で、鞭を使えとの回答であった。
だが、そういった即物的なのは安易過ぎて風情がない。
自分には最終手段があるのだ――、と黒板に爪を立て、思い切り引っかいてやった。
教室からは子供達とシンクレアの悲鳴が上がり、ようやく授業の態勢が整う。
「今日は、将来鉄砲玉になったり、海外に飛ばされたりする皆さんにとって大事な大事な『精霊圏』に関する授業を行います。ちゃんと聴いてないと、悪い魔術師にカエルにされちゃうわよ」
ちょっとユーモアを交えると再び教室は水を得た魚のようにすぐに活気付く。
手を叩いておしゃべりを止めさせると、女生徒が手を上げて質問してきた。
「先生、先生みたいな魔術師になるにはどうしたら良いですか? わたしも賢天の魔術師になりたいです」
「この学校では魔術は教えません。魔法学校に編入してください」
ここはアルビオン王国の首都ロンデニオンの郊外にある特別区『ドーレスピーニャ』。
特別区の半分が基地になっており、士官候補生と幼年生徒を抱えた全寮制の寄宿学校で、緑に囲まれた田舎町である。
思い出を少し振り返れば脳裏に描かれるのは戦場だった。
栄光の『第七独立連隊』を指揮し、敵も味方も欺いて、勝利を欲しいままにした。
国民からの歓声が耳の奥に残っている。
手にした勲章が栄華を誇り――そう言えば映画にもなった。自分の役を大人気女優のステラ・シーンが演じた国威発揚映画だ。白黒の無声映画だったのが気に入らないけれど、想像の余地があるのは良いと思う。彼女は自分より二歳年下で、少し声が高いからだ。それに自身が執筆した『今日から使える陸軍マネジメント』や、恋愛小説の『ダリアの花束』も飛ぶように売れて、メディアにも引っ張り凧だった。
なのに……。
アズラント運河を巡る紛争から三ヶ月。
間違いを犯したとしたらあの時だろう。
政府とは別に、枢密院が戦争の主目的として回収を目指していた神代の遺物――『創造器』の一つである〈蛇の書〉。戦後賠償でダトハルカ王国から手に入れる予定だった物を、勝手に盗んでしまったのだ。それだけなら引き渡してお褒めの言葉の一つも貰えただろうが、どういうわけか〈蛇の書〉を手にしたその時から記憶が曖昧で、問い詰められた時には紛失していた。
それからはトントン拍子で処遇が決まった。
自分の連隊を取り上げられ、第一線から外され、辞令を受けて幼年学校の教官に任官することになったのだ。上層部は羽を伸ばして来いと言っていたが、頭を冷やして来いの間違いだろう。
その証拠に、校長にしてくれと頼んだがダメだったのだから。
アルビオン最高位の『羽根付き獅子星銀勲章』まで授与されたこのあたしが、今ではガキのお守りをしているだけの〝美人教師〟だ。
子供は嫌いではないが苦手だった。
何を考えているか分からない。
彼らは必ずどこかに遊びの余地を見つける。
叱られたことなど一瞬で忘却の彼方へと追いやり、隙あらば我慢できずに突撃を慣行し、殺到してくる遊びの天才である。
「お母さんが先生の小説のファンなんです。今度お茶でもどうですかって言ってました!」
お父さんの年収次第です。
「先生はどこの魔法学校出たのー?」
先生は天才なので魔法学校は出てません。小学校中退です。
「どうして大佐は先生やってるの?」
権力のお陰です。
「先生! 権力が欲しいです!」
偉い人に取入って下さい。
「先生はー……」「先生――」「先――」
「ああもう、うるさぁぁあい!」
どうにも収拾がつけられない惨状にシンクレアは頭を抱えた。
∴ ∴
シンクレアは一時限目の授業を終え、割り当てられた教員室に戻っていた。
まだまだ一日は始まったばかりだと言うのに、憔悴した様子でどっかり椅子に沈み込んで「いつまでガキの相手をしなきゃならないのかしら」とぼやいていた。
その傍ら、部屋の隅で書類仕事をこなしていた半獣人の従兵――ケメット伍長が頭の上に立つ自慢の耳をピンと張って顔を上げた。
「次の辞令が下るまでの辛抱ですニャ。世は乱世でございます。遠からず向うから助けを求めてくるに決まっております」
「早くして欲しいわ。戦場に居るより疲れる」
「でも大佐は子供達からも人気です。士官学校の候補生達も、大佐を一目見ようと窓に張り付いてましたニャ」
「鼻の下のばしてあなたを見に来てるのも居るんじゃないの? まあ良いけど。将来の将軍候補にツバをつけとくのも悪くないか」
「はしたないですニャ」
次の当番まで時間の空いていた事もあり、シンクレアは窓辺で読書を始めていた。
そこへ、開いた窓から一匹の訪問者が現れる。
妖精のピクシーだった。
子猫ほどの身丈で人の形をしており、トンボのような羽で空を自由に飛び回る。そして人々に悪戯をするのが大好きという害獣だ。シンクレアはいつものように飴玉で餌付けをして膝に座らせていた。
微笑ましい光景であったが、市場で売られているピクシーの姿揚げを思い出しケメットはツバを飲み込んで、ハッとしてかぶりを振ると仕事に向き直った。
タイプライターに用紙を噛ませて巻き取り、セッティングを終える。
これは以前よりシンクレアに命じられていた、彼女の軍事行動記録の記録文書作成の仕事だった。
時系列に沿い、事実を正確かつわかりやすくしておけとの命である。
これに金の匂いを嗅ぎ取ったケメットであったが、これも仕事だ。
慣れない文書作成ではあるが、ベストを尽くせばご褒美をもらえるかもしれない。
彼女は下心をモチベーションにして、打鍵音を響かせた。
まず初めに断っておくと、なぜウチが度々語尾に『ニャ』をつけているのかということだが、これは決してウチが猫を起源とする半獣人だから、などという安直な理由によるものではない。
誰あろう、わが親愛なる上官にして恩人、シンクレア大佐による命令だニャ。いったいどのような意図が隠されているのかと気になる読者も居られようが、今はその時ではない。何れ機会に恵まれたなら、この胸を開陳し、真実を語ることを約束しよう。
全てが語られないことに釈然としない読者の為に、代わりと言ってはなんだが、シンクレア大佐の本名がアリシア・ドナルドソンであることをここに明かし、話の枕としよう。
ここだけの秘密。ウチと君との約束だニャ。
では本題に移ろう。
これからお話しするのは、我ら『第七独立連隊』が巻き込まれた一つの事件だ。
各部隊から提供された膨大な資料と、綿密な取材、そしてこのチャーミングな目と耳で見聞きし、ウチの鋭い洞察力と豊かな想像力で、あの事件を再構成するという試みだニャ。
可能な限り真に迫ることを関係者各位にお約束し、亡くなった全ての方へ捧ぐ物とする。
それでは、我らが大佐の華々しくも奇妙な戦いの記録をとくとご覧じろ。
はじまりはそう、とある魔術師の心の傷から――。ここで拍手だニャ。