第三章 青空軍隊の行商 7
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時刻は深夜の三時を回った。
小雨が降りしきる中、夜間築城作業が行われている。スプートから東に広がるなだらかな丘陵地帯。
潅木が生い茂る丘の麓に部隊が展開されていた。
テリト・ニール少佐率いる装甲狙撃大隊と、夜間に合流できたノーデック・ロー少佐率いる第二戦闘大隊、この二個大隊による縦深防御陣地が着々と築かれつつあった。
これでスプートを目指すであろう脅威に対応するのだ。
防御形態は、シンクレアの指示で『島嶼陣地』が選択され、街道を挟み込んだ複数からなる島状の防御地帯が急ピッチで築かれていく。
照明に照らされているとはいえ、夜間の、それも雨中の築城は困難極まるものだ。
手元足元は見えず、雨に濡れた土は重い。足場にはすぐ泥溜まりが出来る始末で、春先とは言えまだ冷え込む夜間の雨は体力を奪う。
この劣悪な環境にあっても、力を発揮したのはドワーフの工兵だ。
妖精種の彼らは自然に近い位置に発生の起源を持ち、取り分け大地との親和性が高い。魔術よりも神秘に重きを置いた秘儀を種の中に秘め、大地と会話し、自在に形作ってしまう。
その天賦と言うほか無い特性によって、塹壕の形成などの大地を相手にする作業効率は人間を遥かに凌駕した。土を掻く円匙は抵抗を受けず、排した土砂は崩れない。
シンクレアはこれを『大地との談合』と称し、世界的にも先駆的な立場でこの有効性を説いていた。
妖精の国『フェアリランド』の移民を活用した彼女一押しの用兵でもある。
小雨が本降りとなっても築城作業が中止される事は無く、是が非でも日の出前の完成を目指していた。
作業光景をスプート側にある小高い丘から見下ろしていると、貫頭衣の雨具を着て長靴を履いたケメットが子供のように水溜りを散らしながらやって来た。
「大佐! 少佐たちが戻られましたニャ!」
「いま行く」
雨音に掻き消えるケメットの足音を背後に聞きながら、目は前方を見据え続けた。
暗闇に薄っすらと浮かぶ稜線に変わりは無く、マナの微震も感じない。朝が刻一刻と近づいてくるが、果たして。血溜まりの瞳を虚空にやると、踵を返して明るい天幕に向かった。
天幕の中では、既に主だった顔ぶれが揃っている。
参加している部隊指揮官のニール少佐とロー少佐に加え、自分の幕僚である参謀将校たちだ。
顔の見えないルイズは先刻、直属の上官であるモック中佐を出迎えるために後方へ向かった。連隊本部付きの通信兵は各部隊間の連携を密にするため忙しなく情報伝達を繰り返していた。
「陣地の状況はどう?」
これに答えたは先んじて陣地形成の指揮を執っていたニールだ。
「進捗率は七割といったところです。第二大隊の人員が加わりましたので、そうお待たせすることも無いでしょう。〇四三〇時までには」
「状況が許せばもっと本格的な物を作らせるのですが……」
口惜しそうに零したのはローだった。彼は途中から加わり、状況もわからないまま命令に取り掛かったので、どこに重きを置くべきか探しあぐねている様子だ。
それでも、訝しむ類の疑念ではなく、純粋に防備の薄さを憂慮していた。
「予兆があったの」
「と、申しますと」
ローは不穏な空気を察知して目を眇めた。
「〈影法師の夢〉を見た」
その場に居合せた者たちは一切の動きを止めてこちら注目してくる。彼らは不安を帯びた顔つきとなり、呻くような声が漏れ聞こえてくる。
「それは凶兆ですな。影法師だけでも不吉だというのに、魔女の夢ともなれば尚更だ。何か良くないことが起こる」
影法師とは、世界中に伝わる不吉の象徴だった。
悪いことが起こる前触れとして、古くからあるジンクスのような物で、これを元にした昔話などが様々な形で残されているのだ。
「しかし何が起こるというのです? 外郭防衛線にはレヒト中佐の第一大隊が網を張っている。スプートが目標であれば、まずは第一大隊と接触することになりますでしょう。ですが今のところ、ラブラス軍の接近は無い。そも、偵察部隊も目ぼしい一帯の調査をしていますが、これまで一度も敵の活動痕跡を発見できていない。このような戦争、自分は初めてです」
不安も困惑も十分に理解出来る。
自分達が誰と戦っているのかもわからない状況下に加え、何か漠然とした存在に対する防備を固めているのだ。
「はっきり言ってしまえば、影法師とか虫の知らせ以上の動機は無い。何もなければそれで良いわ。要衝を固めるのは常套手段だし、重要なことよ。無駄にはならない」
「確かにそうですが」
なおもローは困惑が拭えない様子に、彼と同期のニールが笑った。
「なに、案ずるなノーデック。我らには賢天の魔術師が居るのだ。鬼が出ようが悪魔が出ようが、シンクレアの名を聞けば裸足で逃げ出すさ。ねぇ大佐」
「それに同意するのは酷く複雑なんだけど、あたしに不安はないわ」
それから一呼吸を空けて続ける。
「あたしの軍隊は、あたしが選んだ精鋭中の精鋭。そこにはテリト・ニール、ノーデック・ロー、あなた達も居る。いつだって期待してるんだから」
悪戯に興じる子供の笑みでにしし、と笑った。
もちろん不安を和らげる目的もあったが、半分以上は本気だった。
こんな片田舎でくたばるのも、陰謀に巻き込まれて失脚させられるのもお断りだ。
ふと、カーミラの言葉が呪いのように頭を巡り、それに対する返答のような感情が浮かんでいた。
これがあの魔女を満足させる物かは定かではないが、彼女のご機嫌を伺う為に生きているわけではない。誰がなんと言うと関係ない、邪魔をするなカーミラ。
あたしはシンクレアだ――腹の虫が好くままに邁進し続ける。
突貫工事の築城作業は朝を迎える前になんとか形にすることが出来た。
ニールとローは限られた時間で仕事をやり遂げたようであるが、満足するにはまだ早い。
稜線を見据える防御陣地の最後尾から自軍の布陣を睥睨した。網膜に映るのは、大多数の将校にとって見慣れぬ陣容である。
一般的な防御陣地とは、敵の進行方向に対して垂直に立ちはだかる壁だ。一切の進入を拒み、敵の進撃を食い止めると言う物。ところが、目の前に広がる奇怪な陣地はその類の物ではない。
最前列には大小様々な楕円の塹壕が掘られ、地図に描かれる諸島を彷彿とさせる〝小島〟が複数に分かれて層を形成していた。
小隊規模の島と、それに挟まれる形で中隊規模の島が大地に描かれている。これらはそれぞれが独立し、互いの陣地間には敵の進入を許容する隙間が空けられていた。散在する島嶼のような陣の後方に控えるのは巨大な大隊陣地だが、この場所もそれほど強固な物ではなく、陣地内で小隊、または中隊規模に分割されている。
この異形の陣は、大陸にあるルーシェ王国の軍事学者が構想した『島嶼防衛』という防衛ドクトリンを参考にした物だ。考案者の本国では見向きもされず、未だ実戦経験のない陣地であるが、新しいものは体当たりで吸収するのがシンクレアの信条だ。
彼女にとっては、この新構想はとても魅力的に写っていた。
空は依然として雲が居座っていたが、夜明けはもう間近。
薄明の丘には霧が立ち込め、先を見通すことは更に困難となっている。
その時、アルマジロから通信兵が飛び降りてきた。
「第一戦闘大隊より通信。『こちらに敵影は認められず。スプート方面に広範囲の霧の発生を確認。異常無いか』との事です」
「異常? ケメット」
「はいニャ」傍に控えていたケメットから双眼鏡を受け取り、白む丘を具に観察した。
夜の内に雨が降ったことを考えれば、霧は不思議な事ではない。降雨の後で地表温度の低下や湿度の関係により、霧は何処にでも発生するものだ。
なんら問題は――。
ふと気付く。霧が次第に濃度を高めていた。それは徐々に広がりを見せ、稜線に雲の塊を作り出している。自然現象と納得するには些か度を超えた濃霧の成長に唖然とした。
そして霧は器から溢れ出る水のように流れ、丘を下り始める。
耳鳴り。
続けて背筋がザラつく舌で舐められるような怖気に見舞われ――霊振幅は跳ね上がった。
「違う!」
そう叫んでからアルマジロには見向きもせず、手近に待機していた通信兵の無線機に飛びついた。
困惑する兵士をよそに受話器を手に取りがなり立てる。
「こちらは連隊本部。シンクレアより全部隊へ。前方の霧は敵だ! 敵は霧の中に居る!」
この通達が瞬時に各部隊の指揮官に届けられると、陣地は一個の細胞のように蠢き、その様はこの最後尾からも仔細に見て取れた。兵士達は各部隊長の怒号を受けて一斉に動き出す。
上半身を塹壕から迫り出し、小銃を得体の知れない敵に指向する。
迫り来る霧は堰を切った勢いへと転じ、濁流の如き様相を呈す。もはや眼前のそれは、極小の水滴が空中に滞留する自然現象ではなくなった。
あれは隠れ蓑だ!
前衛の兵士はその肌身で感じた。地面を叩く音を。体に伝わる震動を。
青白い紫電が霧全体に迸るのと同時に、裂帛の嘶きを轟かせながら大地を揺さぶる馬蹄が露となる。
暁の丘に〝彼ら〟は現れた。
『死を告げる者』、『魔軍の百人隊長』、『死神騎士』、畏敬の念と共に唱えられる名は数あれど、体を表す名ほど有名なものはない。
首なし騎士――デュラハン。
一騎のデュラハンが霧を突き破ると、後続から楔形隊列を成したデュラハンの一団がなだれを打って出現し、防御陣地へと押し寄せる。対して、兵士達はこの大物魔族の出現に驚きの声を各所で上げた。
しかし、我慢できないのは彼らも同じだった。
彼らは何も物見遊山をするためにラブラスにまでやって来たわけではない。
戦争をする為に、敵を撃滅する為に、勝利の為にこの島に上陸した。
驚愕の声は気勢に変わり、砲門は開かれる。
ラブラス上陸から六日目の三月二六日、〇五三三時。
第七独立連隊は、上陸後初の戦闘をここに記録した。




