第三章 青空軍隊の行商 6
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鉱山都市スプートは、ここ最近では一番の賑わいを見せていた。
開催の危ぶまれていた『ハルジオ祭り』が二日遅れで催される事になり、この日ばかりは沈みがちだった町の雰囲気も拭い去られている。
天と地の女神テンドーへ捧げ、豊穣と無病息災を祈念するのが祭りの主旨である。
ラブラスの主な産業というのが、農業と鉱山開発である為、この祈念は重要な役割を持つ。
世界中の様々な神秘の有無を審査する『国際神秘審査委員会』による調査結果では、女神テンドーの概念化は正当であるとのお墨付きが出ており、この儀式は国事として法制化され、且つ意味のあるものとして受け継がれていた。
高い金を出してメイチャップを購入する意義は宗教的な理由だけではなく、実際の神の加護を引き出す恩恵があったのだ。
更にこの鉱山都市は、女神テンドーが天へ昇る過程で歩いたとされるハルジオ山脈のお膝元にあり、女神の御使いである炎の化身サラマンダーが眠る地としての伝承が伝えられていた。
こうした理由で、ハルジオ祭りはラブラスにとり重要な祭事の一つだ。
毎年この季節になると、国中から多くの観光客――取り分け、リリビア州の都会人が足を運び、その受け入れ施設として温泉宿が発達し、宗教的聖地や観光保養地としての発展を遂げてきた。
ところが今年は観光客が殆どと言って良いほどやって来ない。年に一度の稼ぎが見込めない、そう悟った外来者向けの産業を生業とする市民達は途方に暮れていた。
そんな折に現れたのが、シンクレアとその部隊だった。
太鼓の音が夜の町に木霊する。
小気味良く打ち鳴らされる音色に合わせ、無数の光が宙を踊った。その下では、列を成した町の娘達がメイチャップで着飾り、女神テンドーへ捧げる舞を披露して、打楽衆と共に街を練り歩いていた。子供達は行列について駆け回り、大人たちは日ごろの憂さを晴らすように飲んで歌う。
街の至る所で夜店が並び、客引きの活気溢れる声が飛び交っていた。
アルビオンの兵隊達はこの光景に目を丸くして、戦時下だと言うのになんと呑気なことかと呆れた。
だが、侵攻部隊として上から目線の立場を築こうにも、町の人々は友好的過ぎた。そこへシンクレアの前進停止命令が下命されたこともあり、束の間の休暇を言い渡されたのだ。すると彼らは灯りに誘われる羽虫になって祭りに加わった。
日ごろ軍規に縛られて碌な娯楽も無い軍隊生活からの解放は、同時に財布の紐まで緩めてしまう。
これには『アルビオンカーク通貨』の取扱いを始める、との通告が大々的に宣伝されたことが一因だった。背景にはスプートの首脳陣の思惑があり、観光客激減による損失を、兵士達の財布で補う方針で舵を切ったのだ。狙いをつけられた兵士達はどこへ行っても歓迎を受けて、飲まされ食わされ遊ばされた。
自分達が良いカモになっている事にも気付かずに、街の若い娘達に引き回されては金を搾り取られ、訳もわからないまま歓待に浸ったのである。
巫女装束の一団は街を巡り巡って、丘の上教会の麓にある広場へと集結しつつあった。
初代領主であるモルガン伯が、ゴールデンラッシュに沸いた、当時のスプートの栄華を誇るために建設した憩いの場である。純金で作られたテンドー像と、それを収めた金箔張りの小さな神殿があることから、そこは『金の広場』と呼ばれている。
広場の外縁を取り囲む石柱に松明を吊るされ、煌々とした炎の輪に黄金の社は照り輝く。
金の広場中央には、杉の木の角材が堆く組み上げられて作られた塔が鎮座し、その傍らに立つのは黒いローブの魔女カーミラだ。
彼女は静かに塔の下に伏せり、女神テンドーへの祈祷を捧げる。大勢の巫女装束が彼女と塔を囲んで輪を作り、太鼓の音は一層高く、力強くなっていく。広場に控えていた管楽衆の笛が吹き鳴らされると祭りはクライマックスを迎えていた。
カーミラが徐に立ち上がると、同調するように外周の支柱に灯る松明の炎が宙へと放たれ、広場の中央に聳える『女神の塔』に次々と飛び込んだ。
松明の炎は角材へと燃え移り、井桁の塔は金の広場を赤々と照らし出す火柱が出現する。
伝統の魔女が巫女の一人に手を差し伸べると、その娘はメイチャップをその場で脱ぎ、燃え盛るテンドーハルジャーへと投げ込んだ。これに続いて娘達が一人また一人とメイチャップを火の中へと投じていく。繰り返されることで炎は更に勢いを増し、ある時を境に火山噴火の如き噴流を天へと広げ、星々の大地に根を張る系統樹の如き様相を呈した。吹き散らされた炎は風に流れ、赤い花弁をつけた花へと変じ、次には巨大な翼を広げた御使い――燦然と輝くサラマンダーの姿となって闇夜を暴いてく。
夜空のキャンパスに描き出される炎の芸術が、町を昼間のように暖かい光で包み込んでいた。
鳴り止まぬ喝采が谷間に響き、人々の歓声で町は沸き立つ。
これにて儀式は終わり、後に残るのは飲めや歌えの楽しい喧騒ばかりであった。
スプートの平野部には鉱山事業関係者が数多く住んでいるが、西部にある山沿いの地域には、平野とは異なる趣きの町並みが見られる。埃っぽい印象の前者に対して、後者は少々湿っぽく、山腹にまで雑多な木造建築が軒を連ねる温泉街となっている。
硫黄の匂いは一層鼻を衝き、路地の側溝からは湯気の立つ温水が流れて麓の河へと注がれる。
大小様々な宿が乱立する中、ひと際立派な旅館が山の斜面に建っていた。
ラブラス公機関により一等療養源泉として認められ、三〇〇年の歴史を誇る老舗温泉宿イマール・ハーデ――この国一番と謳われる宿に、シンクレアは昨日から投宿していた。
「なぜ金鉱床があると、温泉が湧きますのニャ?」
頭に突き立つ両耳の間にタオルを乗せたケメットの素朴な疑問。その疑問符は立ち上がる湯気に混じり、夜の冷たい外気に溶け込んだ。
ばしゃり、と彼女の尻尾が湯を掻く。
「それは逆よケメット。温泉が湧く一帯に、金を産出する鉱床が見られる場合が多いの」
曇って仕方ない眼鏡を外したルイズが訳知り顔で答えた。
地質学や資源工学に明るいという話は聞かないので、大方のところ町で聞き及んだ受け売りだろう。
そもそも彼女の専門は人文学だ。
「なぜ温泉が湧きますと、金が産出しますのニャ?」
「それは……火山地帯だからよ。地中で熱せられたり、高い圧が掛かって金が作られるの」
ケメットは何でも気になる子供のように質問し、ルイズは歯切れ悪く答えていく。
「どうして熱せられたり圧が掛かると、金が出来ますのニャ?」
「それは……」
とうとうネタが尽きたようで口篭り始めるルイズに、半獣人の純真無垢な無知が襲い掛かり、彼女は口を噤まざる終えなくなった。その様子を繁々と認めたケメットは肩を竦めて顔を嫌味に歪めた。
「勉強不足ですニャァ、中尉どの」
途端に立場が入れ替わり、傲岸不遜な態度を取るのだから困りものだ。
「このッ、何もしらない癖に――それよりもあなた、尻尾を温泉に浸けないでよ。毛が抜けてるでしょ」
「ニャんということを言いますか中尉。どうやって尻尾を湯に触れさせず温泉に入れと仰るのです? ウチに獣よろしく四つんばいになれとでも?」
「さっさと上がったら良いでしょ。このままじゃあなたの抜け毛で毛まみれになるわ」
「ひどいですニャ! 差別ですニャ! ウチは換毛期ですのに!」
ケメットはこれ見よがしに尻尾をピンと突きたてて見せつけると、ルイズは彼女の尻を引っ叩き「ひニャッ!?」と悲鳴が上がった。
その乱痴気騒ぎが耳に入るほど近い隣の露天風呂でシンクレアは入浴中だ。
頭にタオルを巻いて、白い濁り湯に浸かりながら夜景を眺めていた。
雨よけ屋根の支柱に吊るされているランタンの柔らかい灯りと、水路へ流れる湯の水音。
姦しい二人が居なければもっと落ち着いた雰囲気で楽しめた事だろう。町の夜景は、祭りを名残惜しむように未だ眠りにつこうとはしない。各所に灯る松明の明かりが町の輪郭を朧げに浮き立たせ、民衆と、恐らく兵士達が入り混じり、笛や太鼓の音、そして歓声が散発的に湧き起こっていた。
瞼を閉じれば寝入ってしまいそうな少し熱い湯加減に発汗を促され、額に浮いた汗を湯に流していると、ルイズが隣の露天風呂から今更すぎることを尋ねてきた。
「大佐、自分もこんなことをしていて言うのもアレなんですけど、のんびりしてて良いんでしょうか?」
「女は綺麗で居なさい。それだけで男達の士気は上がるわ」
「いえ、そうではなくてですね……」
もちろんわかってる。言われずとも――。
「ルイズ、あなただったどうする? 虐殺を行った戦争犯罪者と目され世界中で喧伝される中、平気で軍事作戦の指揮を執り続ける?」
あたしはごめんだ、そういうニュアンスを込めて言うと、意味が伝わった様子で彼女は恐縮しながら湯の中に沈み込む。やぶ蛇だったとでも思っているのかもしれない。
自分の口調が棘を含んでいる感は否めない。
身の潔白を証明するため、本国の作戦司令部に本件の弁明と進捗状況の打電は終えている。そして第三者による調査団の派遣も要請した。しかし、丸一日経っても返事は無い。
元々この戦争は開幕当初から奇妙だった。
意味のわからない宣戦布告に加えて、当事者――敵の不在。島で起きている怪事件。
嫌な予感は随所にあった。嘘だ。本当は金儲けのことと、不祥事の発覚だけに気を取られていた。
それが虐殺報道によって、見て見ぬふりをしてきた諸々が顕在化してしまい「そう言えば不穏な材料は揃っていたな」と阿呆のように後手に回った次第である。
そして現在、真しやかに囁かれている噂が――。
「私たち、嵌められたんでしょうか」
ルイズが呟く。
「嵌められたっていうんなら、狙いはあたしなんでしょうけど、陰謀にするには無茶だし、トロン将軍たちがあたし達を罠に嵌める意味は無い。責任を追及されるのは上も同じよ。そんな事考えても仕方ないわ。今できる手段を講じてくしかない」
「その一環が、この休暇なのですニャ?」
「ええそうよ。軍事作戦と言っても過言ではない。実際に兵を使っているわけだし。彼らがここでお金を落として、町の民衆と良好関係を築く。それによって後から来る調査団があたし達に抱いているであろう悪印象を払拭する効果を狙っている。単に行軍疲れとか、温泉に入りたかったからとか、戦争をする気が無いからという訳ではないの。わかる?」
「さすが大佐です! この窮地にあっても自己保身に走るでもなく、冷静な判断力を持って下士官に対する労わりと欲求を見事に昇華させ、戦術に通用せしめていらっしゃる! 兵士の財布を利用することで軍資金を裂く事も無く、ましてや自分が身銭を切ることも無い、自主的な支出へ誘導してみせる! スマートですニャア!」
「……と、とにかく、作戦司令部が動かないならあたしも動かない。ここに居座ってやるんだから。何ならこの島にあたしの王朝を開くわ」
「ではウチが王様になれますのニャ?」
「なんでそうなる! あんたは伍長大臣よ! 全ての伍長を統括する権利を与えるわ」
「それは心が躍りますニャ――ッ!」
「不安しかないんですけど……。はぁ、お母さん」
とんでもない展望を聞かされて、心中穏やかでないルイズは夜空に向かって呟いた。
その時、布がはためくような音がして、フクロウでも飛び込んできたのかと三人は揃って空を見上げた。そこには、闇夜に溶け込む漆黒のローブを風に靡かせるカーミラが居た。
彼女はモルガン邸で披露した若い女の姿をとり、箒で空を飛ぶという古式ゆかしい魔女に準拠した風体である。
「女三人寄ればなんとやらだ。本当に姦しいねぇあんたたちは」
この予想外の闖入者に対し、反射的に部下の二人が動き出す。
「魔女カーミラ! 大佐はご入浴中です。面会にはアポを取っていただきたい!」
番犬よろしく大声で吠え立てるルイズであったが、自分が裸であることを思い出し、情け無い悲鳴を上げて湯船に逃げ込んでしまう。対してケメットは羞恥心など無縁な様子で、半獣人特有の流れるように美しい肢体をひけらかし、堂々と拳銃を向けていた。
「年長者だろうが同姓だろうが、無作法が過ぎますニャ! これが野郎であればとっくに引き金を引いているところ――ッ、ニャ、ニャニャニャニャニャ!?」
その口上を終えるよりも前に、カーミラが指で宙をかき回していた。
これに合わせるようにケメットはその場で旋風のように回転し、たちまち仔犬の姿に変貌してしまった。
「ケメット!?」
水柱を上げて湯船に落っこちた仔犬をルイズは慌てて抱き上げる。
「ああ……ケメット、あなたよりにもよって猫じゃなくて犬になるなんて。惨い! 魔女カーミラ、これはあんまりです!」
非難の声にも取り合わず、カーミラはルイズを指す。
彼女の宙を引っ張る仕草と共に、今度はルイズの口がチャックのように引き結ばれてしまい「ムーッ、んムーッ!」と驚愕している。
「すぐに解けるさ。温泉は静かに入りたいんだよ」
煩わし気に手を振りぞんざいな態度に終始するカーミラ。
彼女は鉄平石の床に降り立ち自分のローブを霧散させると、その豊満な肉体を露にしながらずけずけとこちらの濁り湯に足を踏み入れてきた。
相対する形となったカーミラが心地よさ気に一息吐き出すと、一瞥を投げかけてきた。
「仲間がああなっちまっているのに、随分と落ち着いているじゃないか」
「別に。あたしも静かに楽しみたかっただけよ」
強がっているように見えただろうか。
しかし格下と思われるのも癪だった。と言うのも、彼女の魔術は明らかに地方魔術師のそれを凌駕しているからだ。カテゴリー2と侮っていたが、この魔術師は骨の髄まで魔導を極めている可能性が出てきた。
空を飛ぶのも、自分や他人を変化させるのも、並大抵の技量では不可能だ。
世界に一〇〇万と言われる魔術師人口で、それを為せる物は両手に収まるであろう。犬になったケメットは困惑した様子だし、口を封じられたルイズも助けを求める怯えた視線を送ってくるが、これは自分の手に余るかもしれない。
カーミラという魔女はもしかすると――。
「あなた、賢天の魔術師なの?」
睨みつけながら問いかけたのは、余裕が無いからなのか。それを認めたくないからか。
カーミラは浴場に声を響かせながら笑った。
「前にも言ったと思うがね、あたしの時代にはそんな称号も制度も無かったよ。あの時代の魔術師も、今とは違ったね。今ほど細分化されてはいなかったし、権力との繋がり極一部の限られた連中だけだった。そもそも、今の魔術師とは成り立ちから異なっていたのだから、当たり前と言えば当たり前の話なんだろうね」
遠い記憶を思い返すようにカーミラの視線を宙へやった。
「魔術師ってやつを、あんたはどう思うんだいシンクレア。細々とちち切れになり先鋭化した学会で、賞と権威を手にする者のことだろうか。高度で専門的な技術を持って、企業に召抱えられる者のことか。国の狗となり、権謀術数の限りを尽くす者のことか。それとも軍に属し、殺戮機械として命を喰らう者のことか。お前は、何者となったのか?」
唐突に水を向けられて答えに窮してしまった。
いきなり現れ、上から目線の問いに対して相手をしてやる義理は無い。
だからと言って無視してしまうのは風情が無い。
それにカーミラの意図していることは言われずとも解ってしまっている自分がいた。町の魔女として古くから人々と生活を共にし、生きてきた魔女の見ているものが。
それ故に、自分の答えが雲隠れして見えなくなっていた。
「カーミラ、あなたが言いたいのは、魔術も魔術師も人に密着して歩んでいくべきだと言うことでしょう。実用主義に則る、人による、人の為の魔術であるべきだと。生活の実践たらんとする姿勢こそが大事であって、今の世に蔓延る魔導は如何に賢天と謳われど、小事に過ぎない。これが言いたいんだわ。あたしが何者かという質問だけれど、これは良くわからない」
この切り返しは予想外だったのか、彼女は瞠目したようにキョトンとしていた。
少しの間呆けていると、途端に湯船を叩きながら呵呵大笑しだした。
ばっしゃんばっしゃん、と打ち出される水しぶきを被り、内心で「なんだこのババア」と悪態を吐く。
一頻り笑い終えたカーミラはひいひい言いながら呼吸を整える。
「いやぁ大したもんだ。金に汚いだけの三下と思っていたが、あんたを見縊っていたよ。大きなお世話だったね。すまんすまん。あんたの言うとおり、魔術だけじゃあない。あらゆる事柄において、人の為とならんものに力を注ぐなと言いたかったのさ。どんなに遠大な理想であれ、信念であれ、生活を蔑ろにするなということさ。賢天にも色々いるようだ。あの男とは随分と毛色が違うね」
「あの男?」
どの男だと思った最中に気付いた。
「そうだ、カーミラ。モリス・エルドランを知らないかしら? この国に進駐しているはずの賢天の魔術師よ。今彼を捜しているの。魔術師同士で付き合いは無かった?」
「あたしが賢天なんぞに会うために、トマーウェルくんだりまで足を運ぶと思うかい」
その口ぶりからは少なくとも面識があることは窺えた。情報通り彼はトマーウェルに住んでいるらしいが交流は無いのでは、現在の状況もわからないだろう。
「思わない。彼と何を話したの」
「奴は魔術の話をするためにこの町に来た。このあたしと術技の交流を求めていたようだね。えらく余裕の無い小市民のような男だった。何かに急き立てられるように魔術魔術と喧しかったから覚えているよ」
「それで、彼に何か教えたの?」
「いいや、何も教えちゃいない。言っちゃ悪いが、魔導の器を持ち合わせているとは思えなかった。話したろう? あたしが重視するものを奴は軽視していた。なぜ魔術を磨くのか。なぜ秘奥を求めるのか。奴は言ったね、賢天であるためにと。賢天に相応しくあるためにと。なぜ賢天に拘るのかと尋ねれば、魔術師として当然なんだとさ。それで、お帰りいただいたよ」
カーミラの語勢には感情の起伏が見られなかった。
淡々と記憶をなぞっただけのものだ。裏を返せば注目には値しない人物ということか。
だがこの魔女の嗜好するところをに思いを馳せれば当然の結果だ。生活のための実践を旨とする思考からすれば、モリスの吐いた答えは手段と目的がアベコベとなった無価値のものだったに違いない。
「彼の魔術は召喚物の合成だそうよ。これはあなたの眼鏡には適わない?」
わかりきったことだとカーミラは鼻を鳴らすだけで答えようともしない。
とことん実用に足るものだけを重視するのが彼女の学問ということだ。それであれば――
「きっと魔術すらもあなたにとっては大した価値も無いんでしょうね。町を上げてカーク通貨の取扱いを決めたのもあなたでしょ? 住民に通貨取扱いの指南書まで配布して、町の損失を兵士達の財布で賄おうとした」
「おや、気に障ったかい?」
「利害の一致よ。まあ、お婆ちゃんの知恵袋だとは思ったわ」
「女は度胸さ。いつの時代も、どんな時もね。それにうちの坊やがメイチャップの件では世話になったみたいだからね」
「坊や? なんの話よ」
「なんだい、軍人さんってのは案外いい加減なんだねぇ。あたしの姓を知っていれば、あんたもやり方を変えていたのかもしれないが、まあ過ぎたことさ」
意味深な笑みの裏を読もうとして、『うちの坊やがメイチャップの件で世話になった』と言う発言が頭の中で反芻させていると、怖気と共に合点がいった。
「最悪」
吐き捨てると、ルイズたちを睨みつけた。
「うちの情報収集はどうなってるの!」
喋れない一人と話せない一匹は、釈明のつもりか首をふるふると横に振っている。
何たる怠慢かと、呆れを通り越して挫けそうになる。
しかし御歳八〇を越えた爺さんの母親が生きているなどと誰が想像できる。結局のところ、自分はモーストン一族にからかわれたのだ。なんて底意地の悪い親子だろう。あの子にしてこの親ありである。
何か言ってやりたくても全て負け犬の遠吠えになってしまうあたり、アウェーゲームの情報格差が悔やまれた。もっとパンフレットを読み込んでおくべきだったのだ。
悔悟の念が熱い湯の中で冷める通りは無い。
小憎たらしいカーミラから逃げるように立ち上がった。
「もう出るのかい? ここの湯はお肌にいいって評判なんだよ」という彼女の言葉には一瞥すらくれてやらず、頭のタオルで体を隠しながら噛み付いた。
「ババアの煮汁なんかに浸かってたら皺が増えるわ」
「なんてこと言うんだい小娘! このピチピチの肌が見えないのかい!?」
「インチキの癖に若ぶるな!」
勝者に対する悪態と捨て台詞は、そのまま賛辞となるものだ。だからこのくらい言っても良い。
自分でも謎の理論によって憎まれ口を正当化しつつ、慌ててついてくるルイズたちを従えて更衣室に向かった。立ち昇る湯気に隠れて見えなくなったカーミラから再び声が掛けれる。
「シンクレア。お前はあの賢天とは違う。だからこそ、自分が何者であるか示さなければいけないよ。誰であろう自分自身の為に。その答えは――お前の実学となるだろうよ」
それから程なくして、カーミラの魔術は解けた。
高度な魔術ではあったが、彼女には敵対の意思が無かった。だからそれほど心配する程のものではない。魔法を解くのに王子様のキスは要らないである。
当人達からしてみれば発狂ものであろうが、魔女を相手取ることがどういうことかを学ぶ良い機会だ。今後はこの賢天の魔術師に対する態度を改め、尊崇の念を抱くことだろう。
カーミラとの対談も無駄ではなかった。モリス・エルドランの人となりについて多少の輪郭を得た。
面識がない人物なので人間性を知ることが出来たのは有益と言える。彼を捜す手がかりになればとも思うが、生きていればの話である。
最大の収穫は、カーミラを敵に回すのは悪手だという認識だった。
今後どのように転ぶかわからないラブラス攻略だが、彼女はキーマンと見てまず間違いない。モーストン一族は戦争終結に必要な人心からの支持を得ている重要人物だ。彼らが居れば戦後処理もやり易くなるだろう。
残す懸案事項は一向に姿を見せないラブラス軍と作戦司令部からの返答であるが、どのような形になろうとも、自分がババを引かされることだけは真っ平ごめんだ。
いつまでも居座ってやるという意気込みを胸に抱いて、この旅館にある貴賓室のベッドへと潜り込んだ。
∴ ∴
夜と昼が同居する空があった。
雲はまったく見当たらないのに、さめざめとした雨に身体が曝されている。
湿気で粘つく空気が不愉快極まりない。風の音はするのに、この身には一切のそよ風すら当たらず髪の毛一本揺れはしない。目の前には霧が立ち込めている。先を見通すことは叶わず、大地を行く線路だけが漠たる未来を予見させた。
私はいつ、どこに居て、何をしているのか。
そも、私は何者であるのか。
私が何者であるのか――それは要らない答えだ。私以外が求める人影だ。必要ない。
気配がする。潅木の並木がざわめいた。
子供の声。
空が呻る。
霧は一層立ち込める。
影法師が一つ浮かび上がった。
私を見つめる影法師。
手を伸ばして、私を指をさす――。
目覚めてみれば、暗い天井が飛び込んでくる。
外からはカエルの声が聞こえてきた。
体を起こしてそのまま窓際に歩み寄ってから、カーテンを開ける。外はまだ暗い。
眼下に広がる町は昨夜のお祭り騒ぎもひと段落して寝静まっていた。
夜空には星も月もない。分厚い雲に覆われているようだ。
今は何時だろう、そう思ってサイドテーブルに置かれた呼び鈴を鳴らす。
ややあってから扉がノックされて「失礼します」と若い兵士が入ってきた。
「お呼びでしょうか、大佐」
薄明かりの灯る廊下で不寝番をしていた彼は、こちらの姿を見るや否や慌てて後ろを向いてしまった。どうしたのかと思い、問質そうとして直に自分が裸であることに気づいた。
これはとんだサービスをしてしまったと反省し、椅子にかけてあるガウンを羽織る。
「伍長、すぐにケメットを起こして来て。それから第二司令部になったモルガン邸まで伝令に走ってほしい」
「は、はい。それで、なんとお伝えすれば?」
「第二種戦闘配置」
当番兵が血相を変えて出て行ってから暫くの間、飲みかけのコーヒーを口にして時間を潰した。それを飲み終えるのと、寝ぼけ眼のケメットがやってきたのは殆ど同時だった。
熟睡中のところを叩き起こされ不平を並べ立てながらも、彼女は手際よく身支度を手伝った。寝癖を梳かして、新しい下着と糊の利いた真っ白なシャツを用意し、上官が異常な執着を見せる服飾ブランド『エル』の新品の三つ揃いを準備する。
ちなみにこの鳶色のスーツは同様の物があと二〇着ほどストックされているが、全て公費で購入したものだ。
照りかえるほど磨き上げられた革靴をケメットに履かせてもらう頃には、旅館に投宿している護衛部隊も全員が準備を整え、廊下に続々と整列を始めていた。
「大佐、今夜は雨が降ります。泥除けも巻きますかニャ?」
「そう、ならそうして」
確かに湿気も強いように感じる。温泉に居るのだから湿度が高いのはそこら中に立ち昇る湯気を見れば一目瞭然だが、人には察知できない野生がこの半獣人に囁くのだろう。
牛革の泥除けを足首に巻き終えると、再び扉がノックされる。「準備できました」と今度はルイズの声が寄越された。昨夜のお祭り騒ぎがあったにも係らず、殊勝にも皆は夜間の召集に間に合わせたようだ。日ごろの訓練の賜物だろう。
甲高い音を立てて靴を踏み慣らし、黒い外套に袖を通して、ツバの広い中折れ帽を被ると扉を開け放つ。
「征こう、戦争だ」
通路に控える兵士達が一斉に小銃を立てて、自らの人間性を薬室に封じこめた。




