64.天地を裂く
へたり込んでいた小魚が何の前触れもなくいきなり振り返った。その表情には驚きが満ち、ずぶぬれになった顔に色はない。つられて振り返った村人達、そして総羽と掖邪狗は、一つの小さな影に気付いた。
豪雨の降りしきる夜の闇をこちらに向かって近づいてくる、細く白い影。
灯りとなる火も星もなくすべてが闇に呑まれた今は、光こそが影となって彼らの目に映った。幽かな蒼の混じる散りかけの蛍火――そんな色だった。
「……まさか」
総羽が息を呑み、口元を手で押さえた。
掖邪狗は目を凝らしてその影を迎えた。人魂かと思った。
驚くほど小さく細い人魂は、この雨の中まっすぐに彼らを目指して歩いていた――歩いて――正真正銘の人間だと掖邪狗は気付いた。
その瞬間ひらめきが脳裏に瞬いた。あの小さな光る影は、まさか―――
「……姫」
人々の間に動揺が走った。誰もが言葉を発することができず、近づく少女を見つめた。
少女は乱れた肩までの垂髪と粗末な丈長の貫頭衣から雨を滴らせてまっすぐに歩いてきた。足は裸足で、手には松明も何も持っていなかったが、何かの残光のようなものが少女の体にまとわりついていた。
彼らの目の前で静かに立ち止まった少女は、奇妙に落ち着いた口調で言った。
「彼は誰にも殺されない。わたしがそうさせない。そこをどいて、わたしと彼を二人にして」
小屋に手をかけようとしていた男達、そして掖邪狗はまだ呆然と立ちすくんで少女を見ていた。
厳重な館の警戒を抜け出しどうやってここまで来たのか、そしてこの異様な雰囲気は何なのか。その正体を見極めようと頭からつま先までをなめるように睨め付ける。
一方、総羽と小魚は、空気の痙攣を感じ取って目を瞠った。台与の周りの大気が震えて、二人の体にかすかな痺れが走る。
全身が総毛立つ。霊力の共鳴――総羽と小魚の身に宿る僅かな力が、空気を通じて圧倒的な力の存在を感じ取ったのだった。
「台与? ……それとも……まさか」
「大丈夫、総羽さん。わたしは台与……ちゃんと台与だから」
総羽の言わんとする言葉を察して台与は無表情のまま応えた。
人々はおろか、総羽でさえ自分を見る目が違う。圧倒的な力のもとに、他者を支配することしかできなくなる……これが呪いなのだと台与は悟った。
もう豊葦原の生活に交わることはできず、死んだのちも高天原はおろか黄泉にすらたどり着けない、人からも神からも見放された異形の存在。
「台与、というとやはり西の巫女姫か。罪人が何故このような場所におる」
村人の一人が叫び、つられるようにして男達は台与の前に立ちふさがった。
「男に会って何をする気か知らぬが、ここを通すわけにはゆかぬ」
「男と通じ力をなくした小娘に用はない。館で裁きをまつがよい」
掖邪狗が制止の言葉をかける前に、一人の男が台与の腕を掴もうと手を伸ばす。台与は悲しげに顔を歪めて一歩後退った。
「やめて、わたしはまだこれを抑えきれない。邪魔をしないで」
切羽詰まったような張り詰めた声だった。総羽はその緊張を察して男を止めようとしたが、間に合わず。
「わけの分からぬことを――」
再び男達が台与に手を伸ばしたときだった。
闇の支配した世界が、一瞬にして蒼白に染まった。目も眩むような烈光が幾筋も空を走り、その二筋は彼らを挟むようにして立っていた大木に狙いを定めて降り注いだ。この世のものとは思えないほどの凄まじい光が暴れ、世界そのものが真二つに張り裂けてしまいそうな爆音が鳴り響き、誰一人として立ったまま体を支えていられる者はいなかった。
言葉の発し方すら忘れて彼らが目を開けたとき、雷の直撃を受けた大木は今や巨大な炭の塊となって辛うじて立っていた。揃って幹の中心を切り裂かれ、雨のせいで鎮まりかけていたあたりのきな臭さも一段とひどくなっている。
それから、誰からともなくゆっくりと、おそるおそる視線を泳がせ――ただ一人その場に佇む少女を見た。少女の発する燐光は蒼く、いまだに音なく空を翔る稲妻の色をしていた。
少女は潤んだ瞳に怒りよりも哀しさを秘めて、じっと彼らを見ていた。
「わたしを通して。邪魔をしないで……」
もう、誰も何も言わなかった。人々は崩れ落ちた姿勢のまま地面に激しく震える手をつき、うつむき、そして叩頭した。
台与が静かに踏み出し、その前を通り過ぎようとしたところで、誰かが震える声で囁いた。
「女王の仰せのままに」
波紋は広がり、人々は地面に額をこすりつけ口々に叫ぶ。
「我らが女王、台与姫」
「我らが日の巫女――!」
総羽の前を横切るとき、台与は総羽を見た。総羽が今までに見たこともないような表情で。
「ごめんね、総羽さん。一緒に闘えなかった」
その言葉を聞いた総羽の頭の中を様々なこたえが巡ったが、最後に口から出たのは一言だった。
「……本当にこれで良かったの」
台与は少し驚いたように足を止めて振り返り、すぐにまた毅然と前を見た。
「うん。後悔しない」
そして座り込んでいた小魚に儚い微笑を向けたあと、黒く焼けこげた小屋の壁に両手をつき、瞬く間に壁の中へ吸い込まれていった。
いつの間にか雨は止み、漆黒の夜空を覆う雲の切れ間に、生まれたての月が浄い輝きを放っていた。




