63.満ちた器
突如扉を押し開いて神殿内に飛び込んできた風に、菜於は驚いて身を竦ませた。
風は轟々ととどろきを挙げながら幣をかき乱し、脇で成り行きを見守っていた婢は小さな悲鳴を上げて顔をかばった。燭台の炎が他愛なく吹き消され、しまいには台までもが大きな音を立てて倒れるような始末だった。
「ひ、姫さま……ここはもう」
危険です、と言いかけて菜於の言葉は断ち切られた。
短い髪を肩の上で激しく乱されながらも、台与は祭壇前から微動だにしなかった。そして、台与の後ろ姿越しに見える炉の炎もまた、彼女に倣うようにして静かに燃えていた。
風の影響など全く受けていない。
菜於は目を疑い、けれどあまりの烈風に顔を上げていることも難儀になって床に伏せた。
「姫さま! 風が――」
刹那、台与は突然その両腕を伸ばして炉の炎にかざした。その掌は炎の中を貫いたように見えた。
菜於が台与の行動を把握できず声も出せないでいると、みるみるうちに炉の炎が膨れあがり、いくつもの火花を散らして弾けた。菜於と婢は悲鳴を上げて身を伏せるのが精一杯だった。
ふと気付くと、風はぴたりと止んでいた。
あれほど荒れ狂っていた科津神はどこへ行ったのかと菜於が首を巡らせると、炉の炎もまたかけらすら残さずに払拭され、神殿は闇に沈んでいた。
その中にぼやけた輪郭で台与が見えた。その身体はほのかに淡い光彩を湛えていた。
神懸かった巫女を彷彿とさせる虚ろな目で、台与は自分の両手をじっと見つめていた。
(手に入れた)
身体の隅々を流れる血潮に溶け込んだもの。
からっぽだった器に、今はなみなみと湛えられている霊力を感じる。それが鼓動に共鳴して全身をほとばしり、身体中に満ち充ちていく。
目を閉じれば視えるあらゆる情景、耳をすませば聞こえる木霊や魑魅の声。
燃え栄えよ、なめ尽くせよ――
彼らの饗宴が激しく耳に響く中で、台与は目を閉じて意識を高みへ向かわせた。
高く高く、誰も追って来れないほどに高く、
森の木々よりも、空舞う鳥よりも、もっと高く
両手を握りしめ、息を吸い込み、力の限りに喚ぶ。
全身全霊を研ぎ澄ませ、湛えられた力を一気に解き放つ。
自分の周りで徐々に冷たいものが渦を巻いてゆく。
もっと強く――もっと大きく――力の限りに喚ばなければ。
「わたしに従いなさい」
無我夢中で台与は叫んでいた。「彼をたすけるのよ!」
烈光が天地を裂いた。宵闇に天上からひとすじの光が走るその姿は、深い海を潜る白い大蛇を髣髴とさせた。恐ろしくも妖しい光に、誰もが目を奪われる。
だが次の瞬間の地を裂く衝撃と轟音で、人々は一斉に地面に叩き付けられた。
「なんという鳴神じゃ……神が怒り狂っておられる……」
大蛇は雨を喚んだ。光に導かれたのか、凍えるほど冷たい雨が突然降り始めた。
小枝を次々にへし折るほどの勢いで降ってきた豪雨は、彼らの目の前で燃え盛っていた小屋の炎を包み込む。人々が呆然とその光景を見守り続けるところへ、小屋から煙が立ち上っているのに気付いた掖邪狗と総羽が大御館を駆け下りてやってきた。
「これは、一体……何が」
「火が消されてゆくわ」
総羽は雨が狙いを定めたように小屋に叩き付けるのをじっと見ていた。
今や荒れ狂う風は雨の味方となり、炎と煙をくるみこみながら吹いていた。小屋を包んだ炎は屋根の部分から煙に変わり、焦げた炭のかけらとなって雨と一緒に流れ出し始めていた。
やがて小屋の最も近くに立ちすくんでいた小魚が急に震えだし、草が萎えるようにその場にへたりこんだ。それを皮切りに、人々は打ち伏していた地面から顔を上げ、完全に火の消えた小屋に手をかけた。
「狗奴の王は生きているか」
「わからない」
「生きていたらどうするのだ」
「……それは」
男達が瓦礫の山を崩しながら語り合っているただ中に、痺れを切らした総羽が飛び込んだ。
「私たちを差し置いて何勝手なこと喋ってんのよ! いったい誰がここに火を付けたの!」
烈火の如く怒り狂った総羽が喚き散らす声で我を取り戻した掖邪狗は、慌ててその口をふさいだ。
巫女王として起つために必要なものの中には神秘性があり、総羽の場合は人々のかいま見た美貌と貫禄がそれを勝手に作り上げていた。しかし悲しいかな今の総羽にそれは微塵もなく、虚しいほどただの小娘の癇癪にしか見えない。
男たち、そして人垣を作っていた村人たちは憮然とした顔で総羽と掖邪狗を睨み付けた。
「ならば言わせていただく。何故あなた方はあの男を放っておくのか。狗奴王の身代わりは早々に処刑しておきながら、姿を現した本物をなぜ生きながらえさせるのだ! 我々は首長を喪い、家族と戦友を喪い、巫女姫の一人を失ったんだぞ!」
掖邪狗は的確な返答に詰まり、言葉を失った。ひとえに台与を救うため……いま狗奴彦を殺せば台与の心が危ない、そんな理由は彼らの耳には入らないだろう。この場で彼らを収めるものは絶対的な権威の顕現しかないのに、総羽も彼自身も、まだそんな境地にはない。
(こんなとき、采迦殿がいてくれたら……!)




