62.光の奔流
誰も知らない世界で、二人で生きようね
身に飾るもののない、まっさらな空と大地に、わたしたちだけで暮らすの
きっと毎日が楽しくて、夢のように過ぎるのよ
子供を育てて年を取って、そうしてそこにふたりで眠るの
いつまでもいつまでも、一緒にいられるように――
炎の舞う姿を目の端に捕らえ、狗奴彦は戦慄した。
小屋の中は煙で何も見えない。格子に阻まれて身動きがとれず、両手で掴んで激しく揺すったり叩いたりを繰り返したがびくともしなかった。額からは汗がしたたり落ち、はち切れそうな熱を含んだ煙が喉を灼いて咽せる。どこか遠くで、誰かの叫ぶ声が聞こえる……
「お兄様、お兄様! あんたたちはいったいどこまでやれば気が済むの! やめて、今すぐ火を消してー!」
(小魚……)
懐かしい声に、煙の中からわき上がるように陽炎が揺らめいた。空と同化するように蒼い海、緑濃い山に囲まれたかの国。
(還りたい……刀麻、小魚、珂良、菊池彦……)
“マナシ”
ひどい泣き顔の少女がそこにいた。何かを叫んでいる――置いていかないで、一人にしないで――そんな言葉だろうということは感じ取れた。いつもそうするように全身をこわばらせて、ありったけの大声で自分を引き留めようとしていた。泣けば泣くほど彼女の涙は透きとおって綺麗なんだ、と狗奴彦は薄れゆく意識の中で思った。
「……台与……どうか無事で……」
台与は日巫女を前にして立っていた。
「まったく、そなたも懲りぬ娘よの」
どこか小馬鹿にしたような表情で日巫女は嗤う。日巫女――いや、ちがう
(わたしだ……)
台与が目にしているのは、紛れもない台与の姿をしていた。
自分の姿をしたものが、日巫女の口調で喋る。現実ではとても直視できない光景だったろうが、意識だけの鏡の世界であったため、どうにか衝撃をやり過ごす。
日巫女がそう見せているのか、それとも自分の心が勝手にそう見てしまうのか。
日巫女と対峙するはずが、思いがけず自分と向かい合う羽目になった台与は焦り始めていた。
「そなたは力などいらぬと言ったはずじゃ。わらわに出て行けと言ったではないか」
勝ち誇ったような笑みを浮かべて、もう一人の自分が見返してくる。
(これは……)
日巫女がからだのなかに入り込む直前に、自分のからだから抜け出した半分の魂。
力を乞い求め、見捨てられるのを怖がって叫んでいた自分の魂。
“ワタシハホシイ、チカラガホシイノヨ――”
(……この日巫女は、あの『わたし』だ……)
「さて、わらわをどうするつもりじゃ? そなたごときにどうにかできるとでも思っておるのか」
人を見下して嗤う自分の顔は、あるいは総羽よりも深いところで日巫女に似ていると台与は思った。誰よりも似ていたのは自分だったのだ――深層ではただがむしゃらに力を求め、必死で拒み続けてもまた戻ってきてしまった。ここに。彼女の持つちからのもとに。
深い絶望と不思議な感慨の中で、台与は何故自分がここにいるのかを思い出した。
(助けるのよ、彼を)
台与の中に日巫女を恐れる気持ちはなかった。マナシと気持ちを通わせ、あらゆる慟哭を乗り越えて手に入れた世界では、日巫女の脅威も皆無に近かった。
捕らえられたのちにみた世界、それは台与の感情の起伏のすべてを超越したところにあった。もうどんなことが起こっても日巫女の思うとおりにはならないだろうという確信が芽生えていた。
だがそれと同じように、目の前の日巫女を容易に折伏できるとも思えなかった。
何一つ持たない、実体すらないこの精神世界で何ができるというのか。斬り倒すための剣もなく、射るための弓矢もない。飛びかかって揉み合うことはできても、そんな時間はどこにもないのだ。
一刻を争う――決断を迷っている暇はない!
台与は自分の掌を目の前にかざした。小さな白い手が震えていた。
(わたしの、この手にできること……)
そして台与は日巫女を見据え、その手をまっすぐに差し伸べた。もう一人の自分に向かって。
静かになった。何の音もない鏡の世界では、沈黙すら反響して耳に痛く響く。
台与に向かうもう一人の自分は、何かを思案するようにじっとその手を眺めていた。その時間の経過に耐えかねて、台与は叫ぶ。
「もしマナシが死んだなら、わたしは残りの命を全部あなたを潰えさせるために使うわ。わたしはもうあなたには屈しない。誰も絶対に許さない」
探るような眼で、日巫女は言った。
「解っておるのか? この力を手にするともう今までのそなたではいられぬ。神をも畏れぬ異形の力を手にし、そなたは疎んじたこの力をいつまでも携えて生きるのじゃ。そなたに安らぎは与えぬ。霊力を使い果たし死んでも、失われた霊力が満ちると同時にそなたは新たに転生し、十と三の年月を経て『日巫女』を目覚めさせるであろう」
永遠に失われる女神のもとでの憩い。
マナシと手に入れた奇蹟の世界の崩壊。
たった一人で悠久の時をさまよい続けるさだめ。
そして、転生するたびに待つ、日巫女との闘い――
気が狂いそうだった。目の前に佇むもう一人の自分の手を取った瞬間に、見えない輪廻の果てまでも日巫女の力と魂がこの身を支配するというのだ。
日巫女の呪いを自らに架す、それが日巫女の出した条件。
「そなたが願えば、そなたと縁を深くする者も輪廻の渦に巻き込むことができようぞ。だが総てを思い出せるのはそなただけ……時を経て再びかの王子と巡り会うことがあったとしても、決して再び結ばれることはなかろうな」
花咲くような微笑をこぼしながらもう一人の台与は口にした。
片割れの痛みを面白がるように軽やかに笑う。
差しだしていた手で胸を押さえて目を瞑る。
日巫女の言葉と、マナシとの思い出が頭の中を駆けめぐった。
そなたが願えば――
『じゃあ、もういいだろ』
輪廻の渦に巻き込むこともできようぞ
『またお前か、まったく変なところでよく会うな』
すべてを思い出せるのはそなただけ
『お前は……あいつに似ているんだ……』
再び巡り会うことがあろうとも
『お前が、今まで俺をだましていたのか!』
けして結ばれることはなかろう――
『台与には生きて欲しいから……』
心音が、おおきくひびき。
台与は一気に踏み切り、その身を投げ出すようにして、もう一人の台与に両手を差しのべた。
瞬間に鏡の中を溢れる光が満たし、相手の姿も自分の腕も白い霧に包まれるように見えなくなる。光の中に何もかもが溶け込み、自分の身体が光と一体になって輝く洪水に押し流されていく。
(解ったよ、マナシ……)
激しい流れの中で台与は深く彼を想った。
(あなたのことば。やっとわかったよ)
どんなさだめが待っていようと、台与は確かに自分の成すべきを成したのだ。
(大切な人、あなたに生きてほしいの)
もう二度と結ばれることはなくても、自分は決して彼を忘れない。
異形となり力に身を滅ぼしても、出逢ったことをけして後悔はしない。
それで、よかった。
光の粒子となり渦巻く流れに身を任せながら、台与は自分の手と繋がる細い指の確かな力を感じた。




