61.切り札
台与の元への情報は、完全にふさがれていた。かつても情報を仕入れるのには多大な苦労をしたが、それでも菜於や女達の口から日々の他愛もない話に紛れてころころとムラの状況などが飛び出してきたものだ。
だが今は、台与のもとを訪れる者はいない。日に二度やってくる菜於は、いつも何かを堪えるように顔を伏せ、辛そうに給仕をするのみだった。
掖邪狗の言っていた村人達の怒りはどうなったのか。彼らの怒りが自分に向かうのはそれでいい、このクニを出ていくことも厭わない。
だが、彼がその程度ですまされるとは思えなかった。掖邪狗と総羽、まだ未熟ながらもこのクニを担い始めた二人が台与の弁護に付いていることで、それに関連して彼への裁きも伸びているのだ。
村人がそれをじっと待っているとは思えなかった。いつか限界が来る、そのときが恐ろしい――
風の強い日だった。
いつものように、菜於が静かに夕餉の給仕にやってきて、台与の前に食事を置いた。その後彼女は台与が食べ終わるまでじっと部屋の片隅でそれを待ち、空になった食器をもって下がっていくのが常のことだった。昔のような雑談もなく、ただ黙々と時間の過ぎるのを待つ、そんな夜だった。
ざわざわと杜の鳴る音を聞いていた菜於が、不意に口を開いた。
「今までお辛うございましたね、姫さま。至らぬ菜於はお気持ちを分かってあげられず、本当に申し訳なく思っております」
「え……菜於?」
突然の言葉に台与は戸惑い、椀を置いた。「何を言い出すの、いきなり……」
「姫さまをお一人で苦しめた結果がこれなのですね。姫さまが選ばれたのは、掖邪狗様でもわたくしでもなく、狗奴国の王子だったのですね……。けれどあなたの苦しみを救えるのは、本当にその男だけだったのですか? わたくしはあまりに不甲斐なく、悲しゅうございます……」
はらはらと泣き出した菜於に、台与は何を言っていいか解らず困惑した。
「菜於、あなたには本当に感謝している。大好きだったわ。でもだからこそ言えなかった、みんながわたしを愛していると知っていたからこそ誰にも言えなかったのよ。彼はわたしと似ていた……そしてどうしようもないくらいに好きになった。救われたいと思って彼と行ったんじゃない、わたしが彼を救いたかったの。そしてただ一緒にいたかっただけ……」
菜於は眉をひどく歪め、今にも泣きそうな顔を上げた。
そのとき、廊の方から慌しい足音が近づいてきた。誰かが狂ったように何かを叫んでいる。
菜於は立ち上がり、扉を出ようとしたところで飛び込んできた下女とぶつかった。
「何事なの」
「ああ、た、大変よ菜於、掖邪狗さまはどこ」
「掖邪狗さまは総羽さまと大御館へ行っているはずよ。総羽さまが移り住む前に決めなければならないことがあるって……それより、何があったの」
尋常ではないその様子に、台与もそろそろと扉の方へ近づいた。目を剥いた下女は、台与には気付かぬ様子で捲し立てた。
「ムラの男達が暴動を起こして、これ以上狗奴の王を生かしておくことはできないと、牢の小屋に火をかけたのよ!」
心臓が、刹那水を打ったように止まる。
息が出来なくなって、目の前が揺れて、暗闇になる。
だがその衝撃よりも早く台与の足は地を蹴っていた。女たちを突き飛ばし扉の向こうへ飛び出そうとして、足首を掴まれ引き倒された。なまじ駆け出しの勢いが強かったせいで力一杯床にたたきつけられた台与は、痛みを感じる暇もなく振り返った。
「離して! 菜於!」
「絶対に離しません! 菜於の命に替えて、姫さまをお止めします!」
言葉通り、菜於の形相は凄まじかった。
「あの男は駄目です、どうかお忘れ下さい! どんなにもがいても苦しいだけです、結ばれるはずのない恋で、あなたの身まで滅ぼしてしまわないでください……!」
台与を止めようと、菜於は全力でのしかかってくる。何とかして諫めようとする菜於の言葉も耳には入らず、捕らえられた獣の子のようにただがむしゃらに暴れながら台与は泣き叫んだ。
「いやだっ、離して、離して、マナシが死んでしまう――! 彼がいたから生きられたのよ、彼が死ねば生きる意味なんてない! 呪ってやる、彼を殺したらみんな許さない……!」
自分の口から飛び出る禍言に身を任せて台与は泣き叫んだ。
(生きて――生きて、生きて)
こんなことになって初めて分かった、自分が一番望んでいたこと。
「生きて! マナシを助けて! マナシを殺さないでえ!」
“台与には生きて欲しいから……”
「お願いです姫さま……諦めてください。風で火は回る。ここから走っても、到底間に合わない」
菜於の呟きに、台与はぴたりと動きを止めた。
髪も衣も散々に振り乱した菜於は、激しい抵抗がなくなったことで、おそるおそる顔を上げて台与を見た。
台与は目の焦点を宙に固定したまま身動き一つしなかった。生気のない顔は、かつてこの場所で魂離た台与を思い出させ、菜於は慌ててその肩を揺らした。
「姫さま、お気を確かに! 姫さまっ……」
台与は突然菜於を見た。その目に理由なく射竦められた菜於が、口を閉ざす。
菜於を押しのけるようにして立ち上がった台与は、取り憑かれた巫女の如く異様な眼をしていた。
「――神殿へ行くわ。誰かに火を持たせて」
「ひ、め、さま」
低く命じるやいなや台与は奥の神殿へ駆け出し、菜於は近くにいた婢に火を持ってくるよう言いつけたあと、慌ててその後を追った。
風が、とどろきをあげて地をなめ尽くす。
それは炎を操り、燃えさからせ、煙と灰が渦を巻く。
無我夢中だった。
彼を助けるために台与が切り開く道があるとすれば、この他にはもう考えられなかった。
それはあまりに細く不確かな、道とも呼べない邪道。
けれどもしその先に、光が見えたなら――
神殿へ辿り着いた台与は、その扉を押し開いて中へ飛び込んだ。
ひどく久しい匂いが鼻をかすめる。菜於の後に続いてきた婢が炉に火を入れると、神殿の闇を押し広げて炎が照った。
香木のはぜる音、炎の揺らめき。
身にまとうものは汚れた貫頭衣と肩までの短い髪。
襷もかざしも、巫女として必要なものは何一つ持っていなかったが、台与はしっかりと祭壇の前に膝を折って座った。
目指すものはただ一つ。
(わたしはもう逃げない。日巫女――決着をつけましょう)
祭壇上にきらめく白銅の鏡をみつめて、台与は白の境地へ吸い込まれていった。




