60.妻問い
台与の表情に浮かんだ微かな揺れを感じたのか、掖邪狗は勢い込んで言った。
「私もそうだ。私はまだ若輩だが、采迦殿のあとを継ぐものとして、あなたを失うわけにはいかないんです。そのためにできることならなんでもします」
台与は戸惑った。なぜ今、こんなにも必死に彼はそう言うのか。
「もういいの。自分がしたことがどんなことか、わたしはちゃんと分かっている。許されたいとは思わない。もしお父様がご存命で、そのときにわたしが同じ事をしたとすれば、お父様はわたしを許さないわ。父親である以上に、このクニの首長だもの。だから掖邪狗、もうお守りはいいの。わたしの為に立場を悪くするのはやめて」
台与はきっぱりと言い切り、それを聞いた掖邪狗はしばらく呆然とした風情で竦んでいた。
なにかを言おうとして幾度か唇が震えるが、それらは結局言葉にはならず、台与の耳に届くこともなかった。
台与は微かに微笑んだ。
「今までありがとう。掖邪狗……ヤヤコには迷惑ばかりかけたね」
弾かれたように顔を上げて、掖邪狗は突然叫んだ。
「ちがう、そうじゃない。私はそんなことが言いたかったのではない。采迦殿の遺志ではなく、私がそう思っているのです。あなたを失いたくないと――総羽殿と同じように、いや、それ以上に」
彼が感情の全てを覆い隠さず、弱り切った子供のような顔で叫ぶのは初めてだった。今まで台与を守ろうと大人でいた彼が、ずっと隠してきた本心を晒してまで台与に縋り付いていた。だがあまりに突然のことで、台与は仰天したまま掖邪狗を見つめ返すことしかできなかった。
掖邪狗は扉の前から動かない。それが彼自身の戒めなのかもしれなかった。
頭を振り、乱れた息を整えた彼は、まっすぐな眼を台与に向けた。
「あの夜、楼観の前で告げられた言葉が、どれほど私を揺さぶったか。そののちにあなたの心に起こる変化に、私がどれほど絶望していたか。――あなたは知る必要などなかったし、一生言うつもりはありませんでした。けれど、あなたを此岸に繋ぎ止めるためなら、もう誰に誹られても構わない」
かつての慈愛の籠もった暖かさと、為政者としての冷たさと、そして、今までにはなかった熱さと激しさの交錯する痛いほどの眼差しで、彼は台与を見て言った。
「あなたを愛している。すべてを捨てて――血筋の権威も、巫女としての今までの暮らしも、彼を想う気持ちも、何もかもを捨てて、私のものになって下さいませんか。今の私なら、あなたを救うことができる。あなたを救いたいのです……台与」
それは、妻問いに違いなかった。巫女として生まれついた自分には生涯縁のないものだと思っていた。そして、掖邪狗が自分に向かってそれを問う日が来ようとは、彼に淡い恋心を抱いていた頃でさえ想像もしていなかった。
台与は息を呑んだが、驚きよりも強く胸に染み渡るものがあった。深い感動だった。
(ああ、いたんだ……巫女でもなく、姫でもないわたしを必要と想ってくれている人が、こんなに近くに)
知らずのうちに微笑みがこぼれた。逆に驚く掖邪狗に、台与は微笑んだまま言った。
「ありがとう……本当に嬉しい。きっともっと前なら、わたしは喜んでこの距離を超えて、あなたの胸に飛び込んで行けた。でも、今のわたしはヤヤコの気持ちに応えられない」
鮮やかな台与の微笑みは、もう子供のそれではなかった。完全に目覚め大きく花開いた、若く美しい娘の笑顔だった。
彼女は操られていた運命の糸を切り、一人の人として生まれ変わったのだ。愛し愛されることを知り、運命を手繰る術をもう手に入れたのだと、掖邪狗は鈍い痛みのなかで悟った。
「わたしを想ってくれるなら、一つだけ、わたしの頼みを聞いて欲しいの」
掖邪狗が頷くと、台与は嬉しそうに、けれどどこか切なさの混じった笑みを浮かべて言った。
「狗奴から連れてこられた奴隷の、サオという子のことを、頼みたいの。ヤヤコの手で、彼女が幸せになれるようにしてあげて。彼女にはもう身寄りがない。彼女の大切な人を、わたしは奪ってしまったから……わたしを慈しんでくれるように、その子のことをお願い」
どちらにとっても残酷な願いだと解っていて、それでも願わずにはいられなかった。
全てが分かったように、掖邪狗は神妙な顔で頷き、そして静かに部屋を出ていった。
ムラの下戸の男たちに囲われて辛い暮らしを強いられていた少女が、突然若き為政者の元に召されたのは、その翌日のことだった。
「君が、サオ?」
何の説明もなく若い大人の前に連れてこられた少女は、寒さでひび割れた唇を噛んで、胡乱な眼差しでその男を見つめた。
「狗奴国の姫、小魚姫だね」
もう一度ゆっくりと問われ、少女は顔色を変えた。それを見て男は微かに笑んだ。
「警戒しなくていい。私は君を保護するために呼んだのだ」
「うそ」
少女は後退り、背後に控えていた兵士に腕を取られる。それを振り払い、少女は毅然と男を見つめた。
「わたしはあなたを知っている。あなたは菊池彦を殺して、珂良を死に追いやったのよ。今度はお兄様、そしてわたしでしょう。狗奴を根絶やしにしなければ気が済まないのでしょう! だったら今ここでわたしを殺せばいい!」
「落ち着きなさい」
男は立ち上がり、少女に近づいた。間近で見る少女の顔立ちはどこかとらわれの狗奴の王子に似ていた。母は違えども、同じ血の流れで創り出された片割れだからだろう。
それとも、自分を見つめる激しい憎悪の眼が二人を似通わせて見せるのだろうかと彼は思った。
年の頃は十六、七くらいだが、傷だらけの細い躰とやせこけた頬が痛々しい。おそらく祖国で幸せな日々を過ごしていた頃は、瑞々しい若さを湛えた綺麗な姫だったのだろう。今はその名残すら消えかけているのがやるせなかった。
「もう一度言う、私は君に危害を加えるつもりはない。戦に敗れたクニの娘を厚遇するわけには行かないが、少なくとも今までよりは良い暮らしを与えよう。私に触れるのがいやだというなら、それも構わない。だが、今日から君は私のものだ」
少女は張りつめた表情で若い男を睨み付けていたが、やがて覇気のない口調で呟いた。
「どうして突然そんなことになるのか解らない。私が巫女で、占の力を利用できるから? 残念だけど、もうそんなものはとっくに――……それとも、あの子、『このクニの巫女姫』が何か言ったの?」
「いいや。君が、狗奴彦の妹だからだ」
若い男は背を向け、少女の世話を下女に申しつけたあと、思い出したように振り返った。
「私の名は掖邪狗。そのまま呼んでくれて構わない。実際がどうあれ、私が君を召したという時点で、君は私の妻なのだから」




