58.夢の逆流
「お探し申し上げました、姫」
洞穴の入り口から抑揚のない声が台与を呼ぶ。
逆光に照らされたほっそりとした姿に台与は息を呑んだ。
(掖邪狗!)
「姫を攫いだした狼藉者はこいつです」
「狗奴国の残党と言う噂は、本当か!」
マナシを押さえつけている兵士が口々に怒鳴る。台与は身を竦め、マナシは辛うじて首だけを上げて物言わぬ掖邪狗を睨んだ。
洞穴の中に踏み込んできた掖邪狗は、以前にはなかった異様な雰囲気を身につけていた。その身には穏やかな物腰の名残さえなく、あまりの眼差しの冷たさに台与は身震いした。
「……その黥は、狗奴のものだな」
「名乗って欲しいなら言ってやる。俺は亡き狗奴国王が第一子、狗奴彦。お前が『殺した』、彦覡だ」
台与は叫びそうになった。菊池彦を処刑した張本人を目の前にして、彼は怒りで全てが見えなくなっている。そして掖邪狗も普通ではない。最悪の事態が目に見え、急速に血の気が引いていく。
顔色を変えた掖邪狗は、泥に汚れた沓先で乱暴にマナシの顎を上向かせた。
「身代わりか。のうのうとお前は生きていたんだな。彼ほどのものを殺し、このような愚物を残してしまうとは。彼が王なら、狗奴も滅びはしなかったものを」
掖邪狗が右手を柄にかけた。宿る光もない薄暗い洞の中で、抜き身の剣がマナシの首に突きつけられた。
「巫女姫を攫った狗奴の残党など、邪馬台に連れ帰り裁く価値もない」
「だめ――やめて、やめて!」
台与は無我夢中で泣き叫んだ。できることなら兵士達をふりほどいてマナシの元へ駆けていきたかったが、掴まれた手はびくともしなかった。こんな状況でも、なんの力も出せない自分に幻滅し憤りを感じながら、せめてありったけの声で叫ぼうとした。
「わたしは攫われてなんかない! 自分で来たのよ、自分で考えて、自分の足でマナシとここまで来たのよ!」
兵士達が驚いて目を見交わす中、掖邪狗だけはじっと静かに台与を見ていた。
「邪馬台なんかどうなってもよかったわ。逃げたかったのは、わたしよ」
最後の声が洞に木霊し、ゆっくりと尾を引いて消えた。
掖邪狗はふいに剣を収め、指示された兵士達はマナシを乱暴に引き立てて洞を出ていった。
静かに台与の元に歩み寄った掖邪狗は、彼を見上げる台与を見返した。少女の長く美しかった黒髪は肩でざんばらに切り乱れ、泥にまみれて茶色く変色していた。
「道理で、なかなか見つからなかったわけだ。あなたはとても巫女には見えない」
「もともと巫女でなんかないもの」
彼を見上げるこの瞳も、以前とはうって変わったものになっていた。
かつて親愛をこめて自分だけを映した瞳が、今は激しい怒りを込めて全てのものを睨み付けている。ほとんど別人のようだと掖邪狗は思った。だが皮肉にも、その目に宿る澄んだ輝きは余計に光を増して眩しかった。暗く深く静かだったそこに、火がともされたのだ。
掖邪狗は目を細めて、台与に向かって言い放つ。
「あなたは私を、そしてこのクニを裏切った」
台与は何も答えない。ただ少しも目をそらすことなく、掖邪狗の視線を受け止めていた。
二人はそれきり口を噤み、掖邪狗は台与の手を麻縄で縛めて洞から連れ出した。掖邪狗の馬に乗せられ、流れゆく景色を見ながら、台与は不思議と清々しい気持ちになってゆくのを感じていた。
(わたしは生きている……)
泣いて許しを請おうなどとは露ほども思わなかった。クニを捨て神を捨てた罪で裁かれようと、馬上から見る世界は台与にとっての今までの人生の中で最も美しかった。空気も空も水も、なにもかもが輝いて見える。
初めて自分だけの世界を掴んだ。何者にも干渉されない、自分だけの世界がそこにあった。
(マナシと二人の世界で、生きている)
生きて欲しいと彼は言った。だから、わたしは生きよう。
どれほど離れても、心だけはずっとそばにいる。
邪馬台国の母村へ戻った彼らを、村人達は悲喜こもごもの目で迎えた。
巫女姫を攫った狗奴の残党に激しい罵声を浴びせるもの、巫女にあるまじき台与の姿に呆然とするもの、その手の縄に気付いて目を見開くもの。マナシを引き連れた馬の後ろに続いてその視線の網をかいくぐってきた台与は、ふいに前方の人垣から飛び出してきた少女に目を止め、息を呑んだ。
夢が逆流する。霧のなかでいつも泣いていた少女――あの子だった。
「……お兄……ま……!」
あまりの喧騒に、とぎれとぎれになる叫び声。それでも台与には分かった。そしてマナシもはっとしてその方向を振り向いた。粗末な貫頭衣に身を包んだ、一目で奴隷だと判る姿の娘が、頬を紅潮させて何かを必死で叫んでいた。
(あの子が――あの子がマナシの異母妹、サオ……!)
その瞬間に全てが解けた。マナシの過去を聞くたびに感じた既視感は、この少女と重なったからだった。菊池彦、珂良、刀麻……二人は同じことを話していたではないか。
夢の少女に見た面影は、マナシのものだったのだ。
小魚は台与に目を止め、そしてまばたきもせずに固まった。紅潮した頬から血の気が引き、双方見開いた目で互いを見つめた。その様子からして、小魚も夢での邂逅を覚えているようだった。
そして今、菊池彦を処刑した男と同乗するその少女が邪馬台の巫女姫であることを――異母兄とともに逃げた敵の姫であることを、知ったのだ。
馬は立ち尽くす小魚の前を通り過ぎ、何もなかったように館に向かう。
だが確かにこの瞬間に三人の胸に宿ったものがあった。
それがどんな感情であるかは、誰も知り得るはずもなかったけれど。たしかにそれは、そこにあった。
第八章 掖邪狗 終




