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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第八章 掖邪狗
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57.逃亡の果て

 近づいてくる……

 足元に広がる水面が震え、ひとつ大きな波紋が台与から生まれた。どこまでも白く続く鏡のようなみなもを、かき鳴らし融けていく。

 ひとつの波がしんと静まったころ、遠くに一つまた円かな波が生まれ、やがてそれは次々と生まれては広がり、雨が降り注ぐ時の様相を呈した。

(近づいてくる。行かなければ)



 台与ははっと目を見開いた。

 暗く静まる夜の森、しばらくたってその深い色を見て取ることができた台与は、今まで横たわっていた草の寝床から身を起こした。

 近くにはまだくすぶる火の跡があり、その横でマナシが静かに寝息を立てていた。

(……?)

 奇妙な目覚めの感覚に台与は眉をひそめた。最初野宿を始めたばかりの頃は、体に響く荒い寝床や夜の森の恐ろしさに落ち着かず、夜中に幾度も目を覚ますことがあった。けれども旅立ちから十日ほど経つ今では、そんなこともなくなったはずなのに。

 なにか、心の奥から台与を急かすものがあった。このままここにじっとしていてはいけない、早く行かなければ。そう言いたげに足がむずむずしている。

 台与は立ち上がり、月を見上げるために傾斜の方へ歩いた。

 今いる山腹からは、昼間なら広々とした土地と村が一面に見渡せる。だがこの時間ではさすがに傾きかけた月明かり以外の灯は見えない。――そのはずだった。

(え……?)

 ふもとに、ちらちらと揺らめく火明かりがある。

 台与は目を疑い、何度かまばたきをしてみたが、それは消えなかった。

 こんな夜更けに山に分け入る理由があるはずなどない。あるとすれば。

 台与は手近の木の幹につかまり、激しく高鳴りだした胸に手を当てた。

 近づいてくるもの。確かだった。


 寝床の場所に駆け戻った台与は、まだ微かに橙色に照る焚き火の跡を落ち葉で押し隠し、眠るマナシの肩を揺らした。

「……ん、何だ、台与」

 マナシは目を擦り、覗き込む台与を見上げた。幾晩も夜遅くまで見張りを続けたせいか、このところ疲れがたまっているように見えた。だからこそ台与は夜くらいはゆっくりさせてあげたいと思っていたのだが、そんな気配りでは歯の立たない焦燥が台与を突き動かしていた。

「逃げよう、早く起きて」

 マナシは訝しげに眉を寄せ、体を起こして台与に向き合った。「どうしたんだ」

「ここへ来るの、すぐに追いつかれてしまう。わたしたちを探している!」

 マナシは飛び起きて、ふもとの見える斜面に駆け寄った。そして血相を変えて戻ってくると、火の跡を蹴散らして荷物を背負い、台与の手を取った。

「探しているものが俺達なのかは分からないが、ここにいるわけにはいかないな。焚き火の明かりを見られたんだ。追っ手だとすれば、昨日までいたムラでこの山に入ったことは知られている可能性がある。下りなければ」

 だがこの暗闇の中、松明も持たずに土地勘のない山中を彷徨うのは無謀だった。結局ほとんど身動きが取れぬまま夜は明け、本格的に山を下れるようになったのは太陽が彼らを照らし出す時刻になってからだった。

 とにかく無我夢中で山道を走った。

 マナシに手を引かれながら、台与はもう自分の心に焦燥がないことを知った。

 解けていた。夢の中近づいてくるもの、規則正しい波紋を生む、それは蹄だった。こちらへ向かって駆けてくる馬蹄の確かな響きが台与に届いたのだ。人の足では、とても逃げおおせることなどできない……

(最初から、分かっていたわ)

 この恋に活路などないことを。

 それでも一緒にいたかった。ただ、ともに生きる時間が欲しかった。


「いたぞ、向こうだ! 回れ!」


 山を下りてすぐに、台与達は見覚えのある鎧をまとった兵士達に囲まれた。

 束の間逃げ込んだ山際の洞穴で、台与は短刀をずっと構えたまま外を睨んでいるマナシに寄り添い、呟いた。

「このままここで、一緒に死にたい」

 マナシは驚いたように台与を振り返ったが、何も言わなかった。

「最初からずっとそう考えてた。死人も同然だったわたしを何度も生かしてくれたのはマナシだもの。ずっと一緒にいたいの、引き離されるのはもう嫌なの。戻りたくなんかないの……」

 自分の胸に顔を埋めて咽び泣き始めた少女を、マナシは苦い微笑を浮かべて優しく撫でた。

「前も殺してくれとか言って泣いたよな、台与は。つくづく変なやつ。でも、だからこそ放っておけなかったんだ。誰にもこの子の命を奪わせてはいけない、守ってやらなくてはいけないって、そう思った……」

 ますます力を込めてしがみつく台与の手をゆっくりと解いて、マナシは柔らかく微笑んだ。

「俺には台与を殺せない。台与には生きて欲しいから」


 そのときだった。洞穴の入り口から一斉になだれ込んできたものが、マナシと台与を力の限りに引き離した。台与は半狂乱でマナシの名を呼んだ。

 彼の持つ短刀が岩の上にからんと落ちる音がして、訪れる静寂。

 地に伏せる格好で兵士達に取り押さえられたマナシ。そして台与もまた二人の兵士に両手を掴まれ、身動きのできない状況にいた。

 二人はついに捕らえられたのだった。

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