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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第八章 掖邪狗
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55.逃避行

 すべてを忘れたわけじゃない。


“わたしと一緒に諦めずに闘うのよ、湯把や日巫女と”

“このクニを――あなたの手に”


 けれど、この奇蹟のほかに、選ぶことなんてできなかった。

 生まれ変わる。なにもかも脱ぎ捨てて、ただ、あなたといるために。

 ともに生きるために。



 ずっと手を繋いだまま、二人は走り続けた。

 まだ昇る途中にある太陽の光は淡く、深い木々の枝でやわらかに散じて降り注ぐ。

 しばらく夢の世界を漂っていたせいか、台与の足はもつれて思うように進まなかった。ときにはマナシの背中に負われながら、それでも走った。

「ここを越えれば、しばらくは休んでも大丈夫だろう」

 息を切らしながら振り返るマナシに、台与は微笑んで頷いた。まだ心の中では静まりきらない様々な感情が入り交じって渦を描いていたが、彼の手の温度がその総てを融かしてゆく。

「……どこへゆくの?」

「どこがいい?」

 いたずらっぽく微笑んで振り返るマナシに、台与は驚いて口を噤んだ。

 そんな台与の表情を見て、マナシは切なげに顔を歪める。

「どこへ……か。どこへ行こうというんだろうな。もう、どこにも行く場所はないのに……」

 クニは焼け、大切な人々はことごとく失われ――残ったのはたった一人の自分。

 「彦覡」という罪の名さえも奪い取られた、身一つの自分。

 居場所もなく、行き場所もなく、ちっぽけな命だけがそこに存在する。

「なんで、俺はまだ生きているんだろうな……」

 その声に台与は足を止め、マナシの背中にしがみついた。力を込めると、透き通る確かな鼓動の音がした。

「どこでもいいよ、一緒に行こう。わたしがいる……ずっといるから」

「……うん」

 彼の泣き場所でありたい。握りしめられる手の熱さを感じながら、台与は強く思った。


 そうして二人の足は、知らず知らずのうちに西へ向かっていた。どちらも口にはしなかったが、その行き先は解っていた。外交組織・一大率を持つ西の大国、伊都国。邪馬台の連合ではあるが、戦火の遠い平和な地にあるというクニ。

 そしてそこには、二人にとってのかけがえのないかの人がいる。

 邪馬台国を出て3日、野宿に慣れない台与のために柔らかな草や葉を集めた寝床を整えたマナシは、焚き火で一生懸命木の実を炒っている台与のそばに跪いて言った。

「……張政に会って、大陸へ行って、誰も知らないクニで二人で暮らそうか」

 台与は顔を上げた。と同時に、唇にふと触れたものに驚いて目を見開いた。初めての口づけだった。

 木の実のはぜる音で離れたマナシは、窺うように台与の顔を覗き込んで仰天した。台与はどうしようもないほど真っ赤な顔で固まってしまい、見開かれた両目からばたばたと涙が流れ出したからだった。

「うわっ、な、何で泣くんだ! ごめん、別に無理強いするつもりは」

「ち、ちがう……」

 心の中にとどめておいた感情が、堰を切って流れ出した。

 誰も知らないクニで二人、生きていけるなら、台与にとってこれほどに幸せなことはない。そしてマナシもまたそれを望んでくれている――けれど。

(ごめんなさい……ごめんなさい)

 謝らずにいられないのは、『台与』とは違う、もう一人の『わたし』がいるから。

 マナシの運命、そして狗奴国の運命を大きく歪めてしまった根源の女王、それがいまもこの中にいる。

 その事実を伝える機会はいつでもあった。けれど、口を開くと急に言葉は喉に詰まり、胸から膨れあがった恐ろしさが告白の言葉をまた引きずり込んでいってしまうのだ。

(嫌われたくないの……厭われたくないの。あなたの一番憎んでいる人を、わたしが生かしているなんて)

 言えない。一緒にいればいるほど、伝える勇気はどんどんと小さくなって消えてしまう。

 涙を拭って顔を上げ、台与は必死の思いで微笑んだ。

「二人で生きたい。クニに帰ってって言ったけど……本当は逢いたかったの。会いたくて会いたくて気が狂いそうだった。お父様が亡くなったことを知ったあと、内乱が起こったことや、掖邪狗がわたしを女王にしたがっていることも知りはしたけど……何も考えたくなかった。ずっと夢の世界にいた気がするの。迎えに来てくれてありがとう。マナシが来てくれなかったらきっとわたし、今もずっと夢の中にいたわ」

「……皮肉だな、一度は殺そうとした娘に礼を言われるなんて。お互い憎い仇のはずなのに……なんでこんなに愛しいと思うんだろう」

 台与の頭を軽くなでる、そのぎこちない仕草からあふれるあまりの優しさに、拭ったはずの涙がまたあふれ出した。

 目を伏せたマナシは、声を低く落としてどこか不安を押し隠すように囁いた。

「お前には、俺と違ってまだ帰る場所はある。待ってる人もいる。けれど、お前がそれを望まないなら、この手で攫ってやろうと思った……。本当に、いいのか? 何もかも捨ててしまって」

 台与はマナシが驚くほどの勢いで彼の胸に飛び込んだ。

「捨てるんじゃない、これから得に行くのでしょう? 眼炎まかかやく世界を、二人で探すのでしょう?」

「……そうだな」

 見合わせた互いの笑顔は痛いほどに切なかったけれど、研ぎ澄まされた確かな決意がそこにはあって。

 二人は、もういちどそっと唇を重ねた。

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