54.重なる掌
湯把排斥の動きはみるみるうちに国中に広まり、一触即発の雰囲気を醸し出し始めていた。
采迦の跡を継ぐ若く聡明な掖邪狗につくものと、日巫女の側近という湯把の霊力を信じて彼につくものと、勢力はまさに二分した。
掖邪狗が勝利したとき、日巫女の血族の巫女が女王となる。そのことで思いも寄らぬ権力争いのただ中に巻き込まれることになった総羽は、辟易していた。
自分か台与か、早くもその話が出ているというのだ。
(まったく掖邪狗のやつ、こんな時ばっかり本気になって。台与の気持ちも考えなさいっての)
掖邪狗が女王に立てたいのは誰でもなく台与一人だろう。だが張本人の台与は、誰よりもそれをおそれている。
(むちゃくちゃな速さで、とてつもなく深い墓穴を掘ってるわ、あの男。でも……それを止めることはできない。あいつの気持ちは、痛いほどによく解るもの……)
このまま日巫女が二度と目覚めないのであれば、台与を女王にしてもいいのではないかと総羽は思っていた。もともと自分が玉座に拘ったのも、日巫女への意趣返しが主な目的だったのだから。
だが最近の台与は見るからに不安定なところがある。
(わざわざ送った使いも、私が直々に会いに行ってやろうという申し出も、即座に断ってくるなんて。どうしちゃったのよ台与ってば。采迦さまのことで鬱いでいるのかしら)
いてもたってもいられなくなった総羽は、内乱の危機でぴりぴり張りつめる空気にもお構いなしで自ら台与の西の館に向かった。だがそのとき、台与は月立を迎えて、忌屋に籠もっていたのだった。
無駄足を踏んだ総羽は、腕を組んで独り言とは思えないほどの声でごちた。
「いいわ、出てきたらとっちめてやるから。もうこの際、肝を据えるしかないのよ……台与か私か、それが問題なんだから!」
だが、まもなく総羽や掖邪狗の覚悟を大きく揺るがす出来事が起ころうとしていることなど、総羽はこのとき知るはずもなかった。
いなくなってしまう、誰も。
“キクチヒコが死んだ……あとを追ってカラが死んだわ、もう、私にはなにもない”
目の前で咽び泣く少女をみつめて、台与は唇を噛んだ。
“わたしも同じだわ。お父様も、マナシも、張政さんも、だれももう戻ってこないもの……”
少女は顔を上げ、はじめて台与を見つめた。
“私たち、同じなのね。だからこんなところで出逢うことができるのね”
泣く声が台与を少女の元へ導いたのだ。あまりにも深い嘆きが共鳴して、魂が引きずられるように邂逅してしまった。おそらくここは夢の中なのだ。どちらでもない、二人の夢がもつれ合ってできた幻の世界。
“たったひとり……わたしたちはずっと、独りぼっち”
呟いた台与に、少女は涙で潤んだ瞳を向けて口を開いた。
“あなたの名前を、聞いてもいい?”
台与は口を開いた。だが言葉にする前に、どこからかひどく強い波動が打ち寄せてきて、声を失った。
“なにこれ、誰かが呼んでいる。誰を……?”
少女が耳もとを押さえて首を巡らせる。深く立ちこめた霞を吹き飛ばすほどに強く、誰かが呼んでいる。
戸惑いながら次の波に飲み込まれた瞬間、身体中に響き渡る声に二人の体は硬直した。
“この、声、は――”
台与は急激に覚醒した。夢の世界から引きずり出され、突如足首から走った痛みに仰天して見下ろすと、そこは地面ではなく、恐ろしく冷たい水の中だった。
何が起こったのかわからず、台与はおろおろとあちこちの風景を見回して、見覚えのある場所だということに気付く。
(禊ぎの川原? わたし、いつのまに……今まで、一体何をして……)
気を取り直して、じっと記憶を辿ってみる。蜘蛛の糸ほども細い記憶の糸口をそろそろと手繰り寄せると、衣に雪解けた水がどんどんと染みこむかの如く、夢か現か解らない危うい記憶が甦ってきた。
(ああ……!)
冷たさも忘れて川の中にしゃがみ込む。襲ってきた慟哭に身を任せて、台与は泣き叫んだ。
「お父様、お父様、おとうさま……っ! ああ、あ……っ」
忘れようとして、夢の世界に逃げて――けれども逃げおおせることはできなかった。
どこへも行けない。けれどもう、この悲しみと恐怖の坩堝で生きていくことなどできない。
「……死んでしまいたい」
呟いて台与ははっと息を呑み、次いで静かに嗤った。
ちょうど一年前だった。同じこの川原で、同じ言霊をこぼして。
そして――出逢ったのだ、彼に。
(逢わなければ良かったの……? そうすればこんなに苦しむことにはならなかったの? あなたの仲間と、わたしの家族が殺し合う、こんな深い絶望の世界を見なくてすんだの……!?)
かけがえのない人を失ってもなお、決して憎むことのできない人。
激流が交錯するように入り乱れる、やり場のない思い。
(違う、わたしは。だって、こんなになっても……逢いたい)
「あなたに逢いたいのに――マナシ!」
そして、台与には奇蹟のように思われる一瞬。
ゆっくりと静かに対岸の茂みは騒ぎ、大きくときに小さく揺れ、何かをいざなった。
息をひそめて台与がそれをみつめていると、やがて音もなく現れる人影。
その目は最初からじっと台与だけを見つめていた。あの一年前と同じ、歪みを知らないただまっすぐな眼で。
その人は静かに川面に降り立ち、ゆっくりと台与のもとへ歩み寄る。
震えさえも止まる。呼吸ができない。
もう、それしか見えない。
「行こう、台与」
差し伸べられた手。台与はゆっくりと視線を落とし、その掌を見つめた。
迷いなどどこにもなかった。
手を握る、重なる温度、ひとつになる、鼓動。
二人は駆けだした。クニも身分も何もかも脱ぎ捨てて、まあたらしい世界のために。
(恐れるものはもう――なにも、ない……)




