53.神への誓約
“あなたはこのクニの全てを、そして私を裏切った”
頬を撫でる風に、台与は顔を上げた。この風が吹くとき、それはあの子と出逢うとき。
天上か地上か、雲上か水上か……またそのどれとも言えぬひんやりとした感触を足首に引きずりながら歩を進める。踏みしめるたびにふんわりと舞い上がる白い霞はやがて一面を覆い尽くし、その向こうから微かに漏れいずる光、そして声。
(ああ、あの子がまた泣いている……)
共鳴するように、台与の目からもこぼれ出す感情。出逢うたびに、飽くほどに二人で泣き続けているというのに、涙はいつまでたっても涸れはしなかった。
少女はいつもただそこに立って、小さな肩を震わせていた。
それは台与よりも少し大人びた、ほっそりとした小柄な少女だった。
いつもその顔を覗き込むたびに心の奥で一瞬膨れあがるものがあり、何かを彷彿とさせ、だがその感傷はあふれ出す涙と一緒にすぐに流れ去ってしまう。
だから台与は少女の名を知らなかった。そしてまた少女も。
“逢いたい……”
口にするのはただそればかり。逢いたい、ただ逢いたい。もう一度逢いたい――
“逢いたい、お兄さま……”
狗奴王が処刑されたことで、長年続いた邪馬台国と狗奴国の戦には終止符が打たれた。
剣を振り下ろした瞬間、一つの歴史が終わった。
掖邪狗はその時に誓った。白く赤く瞬き、その手を血に染めながら。
(もう、恐れるものは何もない――わたしの願うことはただ一つ)
そのためには、どんなことでもしよう。たとえわたしの未来も命も、何もかもを捧げてもかまわない。
あの方のためならば。
そして、片袖を血の真紅にそめたまま、掖邪狗は振り返って群衆を見据えた。
戦勝の熱に酔いしれ騒ぎ立てる彼らをぐるりと一瞥し、まだ固く手に握りしめたままの剣の露を大きく払った。飛び散った飛沫が人々に小さな黒い染みを残し、はっとしたようにその場は静まりかえった。
「狗奴国は滅んだ。われらが邪馬台は戦に勝った。だが、本当にこれで良かったのか。これで全てが終わったと言えるのか!」
「掖邪狗 !? 」
傍らの老いた大人が目を剥いて彼を諫めようとするが、振り返った掖邪狗の眼差しに打たれて口をつぐんだ。血を浴びた掖邪狗の顔からは普段の穏やかな微笑は跡形もなく消え、血走った目は神懸かったように爛々と燃えて見えた。
「我々はいつでも狗奴国に勝てた。国力も兵力も圧倒的にまさっていたはずだ。いま、性急に事を運ぶ必要がどこにあった? 確かに、狗奴国を下すことはできた。だが失ってはならないものを失ってしまったではないか! ――采迦殿はこのクニに必要な方だった。あの方に見合うだけのものを、我々は手に出来たのか!?」
しんと、人々が黙する。彼らも十分に解っているはずだった、采迦は誰の元にも等しく恩恵を与える、これ以上とはない為政者だった。絶大な霊力を誇る日巫女と、その道行きを正しながらクニを導く采迦がいれば、邪馬台には何の不安もないような気がしていた。
だがいまや邪馬台を加護する双璧は失われ、このクニの行く先は誰にも見えない。
「采迦殿だけではない、他にも多くの兵士達を失った。このような攻め方で狗奴を滅ぼすのなら、今でなくとも、日巫女の治世でもできたはずだ! ならばなぜ日巫女はそれを行わなかった。我々にとって最も被害がない時期が来るのを待っていたのではないのか」
掖邪狗の行動にすっかり取り乱した老大人は、頭を抱えて呻いた。
「し……しかし、湯把王は日巫女の託宣を聞いたと……」
「王になろうと思えば、日巫女の託宣さえあればなれる。たとえ実際にそれを戴いていなくとも、言えば誰もが信じる。彼はそういう位置にいたのですよ。誰もが日巫女の託宣を恐れて口にしなかった、しかしそれが紛れもない真実だ。――湯把は偽王だ。彼はこのクニを滅ぼす」
人々が息を呑む気配が、掖邪狗にも伝わった。今このとき、自分は反逆者となったのだから。
(恐れるものなど、なにもない……!)
手にした剣を、天を貫くように高く掲げる。
何度も白く閃く光を追って、人々が一斉にそれを見上げる。
「私は采迦殿の目指した王国を作ろう! だがその時にこの国を統べる王は湯把ではなく、正統な巫女姫であるべきだ。私は全力を持って湯把を排斥する。これを謀反と呼ぶのならそれもいいだろう。私は神に誓約をたてよう、このクニを――そして我らが姫を、守ると」
水を打ったように静寂があたりを包み込む。
科津風さえその息吹をひそめ、ときが止まったような刹那だった。
そののち、人々は各々、そしてやがては一斉に歓声を上げた。拳を高く挙げ、我らも共に誓約をたてようと叫びながら。
一つの結末を目指してこのクニが再び動き始めたのだ。もう誰にも止められない、掖邪狗はそう思った。
(私にできることをやるだけだ……それがたとえあなたの望まぬことでも)
急激に燃え上がった熱に飲み込まれる人垣。
その中から、たった一つだけ背を向けて消えた影に、誰も気付くものはなかった。




