52.慟哭
館を抜け出し、浜辺で一人で咽び泣いていた自分を迎えに来るのは、いつも彼だった。
一緒になって砂浜に座り込み、海士達が波間に現れては消え、消えては現れるのを飽きもせずじっと見ていた。時々は彼らから獲物を分けて貰い、砂浜で火をおこして二人で食べることもあった。
そのころになると自分の悲しみも悔しさも全部引き潮と一緒に流れていって、彼の手を取った暖かさだけが心に広がっているのだ。
“どうしてオレの居場所がわかるんだ?”
不思議がってそう尋ねると、彼は決まって微笑んで答えるのだ。
“あなたのことなら、何でもお見通しです。生まれたときから、そしてこれからもずっと、私はあなたのために在るのですから――”
忠誠心などというものを知らない頃だった。だから自分は、その時から彼を唯一の家族だと思った。
たしかに近くにいて、けれどどこにもいない自分の『父親』を、初めてそこに見出した気がした。
もう迷うことのなくなった山を抜けると、眼下に広がる緑の平地。蒼い海の輝きの代わりに鬱蒼と繁る森や、いくつもの小高い山がゆらゆらと朝霧の向こうに揺れているのが見えた。
(……戻ってきた)
そう思うことがひどく不思議だった。自分から故郷を奪い、大切な人々を奪った憎くて恨めしくて仕方ないはずの敵国の地。しかし、彼の胸をよぎったのは寂しさを伴った不思議な郷愁だった。
(憎める方が、どれだけ楽だろう……)
解っている、この地に在るたった一つのものが、彼の胸内から憎悪の念を払拭してしまうのだ。
憎しみと怒りに我を忘れることもできず、かといって全てを受け入れることもできず、今や心の中はひどく空虚な感じがした。
けれど今はとにかく走らなければいけなかった。
自分の名をかぶったまま、彼を逝かせるわけにはいかない――
「死ぬな……菊池彦! 最期まで俺の身代わりになるなんて、許さない……!」
見上げた空は蒼く、透き通るような海の色を思い出す。
縛められた体は自由にはならなくても、瞳が自由ならばそれでいいと彼は思っていた。
今いる場所は違えども、いつかは自分が生きてきた空と大地につながる。頬に風の温度を感じ、足裏に地の温度を感じていられる。
最期まで、ともにいられる。
自分を縛める縄の先端を持つのは、まだ若い男だった。身なりからして、下人や奴ではない。大人の一人だろうか、その年齢と端正な顔立ちゆえに忌みの白装束もどこか華やかに見えてしまうほどだった。
(王子と同じくらいだろうか……)
この戦で邪馬台国も将軍を失った。痛手はとても大きいと見えて、連れられる道すがら、人垣を成す邑人たちから飛礫を浴びせられることもあった。私怨で殺されても仕方ないと思っていたが、ここに来てしばらくを牢で過ごす間、話をしたのが目の前の青年だった。
戦況のいきさつや将軍の今際を事細かに尋ね、敵である自分にもむしろ親切に――とまではいかなかったが、少なくとも苛みはしなかった。言葉を交わすたびに感じる真摯な志に、彼も次第に心を開いていくのを感じていた。
(王子を思い出すのだ、この青年を見ていると)
敵国ながら、彼はこのクニの全てを恨むことができなかった。命を賭して和解を求めた将軍や、この若き聡明な青年を見ていると、どうして争わなくてはならなかったのか、それさえもが不思議に思えてくるのだ。それは、この青年が自分の首をはねる役目を担っていると知ったあとでも変わらなかった。
小高い丘の上で青年は立ち止まり、彼もまた歩みを止めた。
彼の体は一本の杭に縛り付けられた。自分を囲む人垣は一層大きさを増し、人々の怒号と罵声が入り交じり、彼をめがけて飛んでくる飛礫も数を増していた。
青年は一声で人々の激高を沈め、彼に向き直った。
「……最後にもう一度、お尋ねいたします。あなたは本当に、狗奴王なのですか」
その瞳には明らかな戸惑いが浮かんでいた。
(ああ、そうか、この青年は私のことを知ろうとしてくれていたのか)
話をするうちに、自分が青年に対して心を開いたように、青年もまた自分を理解しようとしてくれていたのだ。互いの人となりを感じるにしたがって、自分と同じ疑問を抱くようになっていたのかもしれない――
(いや、むしろそれは私の落ち度だな……私は狗奴王でなくてはならない。最後の最後まで)
見回した人垣の中には、手首を縛められたままじっとこちらを見つめる瞳が幾つかあった。故郷の同志たち……連れてこられ、奴隷としての生を与えられた彼らのなかには、自分を知るものも少なく、もし気付いても口を割る者はいないだろう。
彼は青年に向き直り、穏やかに微笑んだ。
「間違いはない。私が狗奴国の王――彦覡だ」
青年の顔がひどく歪む。唇を噛み、何かを言おうとして口を開き、そしてまた閉じる。
腰の剣の柄に伸びた手はすんでの所で静止し、小さく震えていた。
青年の脇にいた老人が、見かねたように彼に囁く。
「何をしておる、掖邪狗。早く首をはねよ」
(そうか、掖邪狗というのか、この青年は……)
掖邪狗は顔を上げた。
最後まで自分を探る掖邪狗の瞳をまっすぐに見返して、彼は微笑んだ。
掖邪狗が目を閉じる――そして剣は鞘から抜かれ、陽の光が宿る。
その時に彼は見た。丘の麓から、あふれかえる人垣を押しのけるようにして、駆けてくる一人の姿を――
(ああ、狗奴彦……)
陽の光が散った。
眩しくよぎったその白、
耳元に打ち寄せる波の音、
幼い少年の笑い声……
『菊池彦、ずっと一緒だぞ。どこに行くにも、絶対おれを置いていったら許さないからな、わかったか』
どうか、生きて、我らが王子
「菊池彦――――っ!!」
空を裂くような人々の歓声に、たった一人の慟哭は飲み込まれ、掻き消される。
最後の戦の勝利にわき上がり爆発した熱が、空と大地を一つの色に染め上げていた。
第七章 彦覡 終




