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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第七章 彦覡
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49.戦場を視る

 しずかな、しずかな白い世界――


 立ち尽くす台与の前に、いつのまにか薄絹の領巾をゆったりと身にまとい佇む女がいた。

 冴え冴えとした麗しい面を台与に向けて、その女はうっすらと微笑んでみせた。

 温かみのかけらもない笑みだった。

(日巫女……)

 いや、ちがう、と台与は首を振った。日巫女の体はもう土の中だ。ここにいるのは、台与の心が生み出した幻影だ。そう思いでもしなければ、恐ろしさのあまりに霊離りしてしまいそうだった。

 唇を噛んで女を見据えると、女の微笑は侮蔑の眼差しに変貌した。

『忌まわしい娘。そなたのせいで何もかも狂ってしまうではないか。分をわきまえず、わらわを封じようなど』

「忌まわしいのはどちらです。力を誇示して人を乗っ取って生きようなんて、許されないことです」

 腸の煮えくりかえる気分で台与は言い返したが、女は少しも怯む様子なく、ますます憮然とした表情になった。

『生きる価値のないそなたを、有効に利用してやろうと思うことのどこが不服か? 死にたい死にたいと喧しく嘆いていたのはそなたじゃ。自らが招いた事態をわらわのせいにするのはおやめ』

 台与は顔が熱くなるのを感じた。自分の創り出した幻影の台詞だとすれば、相当自虐的な行為には違いない。

 怒りとも悔しさともとれない強烈な感情が一気に下腹のあたりで膨れあがり、憤りが反論の言葉をすべて飲み込んで体の中で渦を巻いた。

『その上そなたが無駄に足掻くから、取り返しのつかぬことになった』

 日巫女は物言わぬ台与の眼差しを鋭く見返し、信じられぬことを言った。

『我が弟はそなたのせいで死ぬのだ。それでもそんなにあの狗奴の王子が心配か、邪馬台の姫ともあろうものが。そなたは狗奴が滅びるのを潔しと思わなかった。これは当然の報いじゃ、すべてはそなたの招いた災いよ』

「な――なんてことを言うの!」

 台与は怒りと狼狽で悲鳴を上げた。責め立てられ続ける理不尽さと、日巫女の言った禍言の恐ろしさに眩暈がした。

「いい加減なことを言わないで! お父様は帰ってくるわ、あなたの望みどおり、狗奴は邪馬台に滅ぼされたんだから!」

 日巫女の目が、冷ややかに細められた。そうして彼女が手を挙げると――


 一瞬にして、雪色だった世界に目に余るほどの色と躍動、そして喧噪が広がった。

 あまりの落差に台与は仰天し、しばらく目の前で繰り広げられる激しい動きと音が何を表すのか理解できなかった。ものすごい数の人が入り交じり、走り闘い逃げ倒れ――火の手があちこちで伝染し、まるで鮮やかな夕陽のようにその総てを包み込む。

「あ……あっ、いや」

 台与は思わず後退った。状況を把握すればするほど、恐ろしさで足が凍りつき、よろめいた。

(戦場だ――それも狗奴と邪馬台の)

 邑人たちの血が春を待つ土を湿らせて、感じるはずのない台与の足の裏にまで生暖かい感触を伝えた。これは幻だ、戻らなければ、そう思っても彼女の身体は何一つ言うことを聞こうとしない。

 戦がどんなものかなど、台与は考えたこともなかった。

 人が死ぬことは知っていたし、それを悼みもした。けれど、これほどの惨状を思い浮かべる術などなかった。珍しい大陸渡りの品や真新しい絹衣、玻璃の玉釧……そんなものを愛でて育った姫巫女にとっては、戦とはクニを作る一過の絵空事に過ぎなかったのだ。だからあの夏の夜、倭の戦乱を嘆くマナシを諭すことだってできた。

 だが、目の前に広がる世界は、台与が住む場所と地続きだとはとても信じられない場所だった。これが戦なのだと理解することすらままならない。むしろ黄泉の深い深い闇だと聞いた方が、これほど取り乱さなかったかもしれない。

『よく見るがよい、愚かな娘……。そしてそなたが招いた災いのすべてを』

 耳元で囁かれた涼やかな声音に、台与は寒気を感じて振り返った。日巫女の姿はなく、そのかわり視線の先から、見覚えのある大きな体躯の男が何人もの兵士を薙ぎ払いながら台与の方へ駆けてきた。

 目を凝らして、台与ははっとした。

(さっき視た、マナシの腕の中で息をひきとった人だ……! じゃあ、これは――)

 男は台与のまさに目前で立ち止まり、左手に持っていた弓をつがえた。

「逃げろ、『彦覡』! ――邪馬台国将軍、覚悟!」

「よせ、刀麻、抵抗するな――」

 二つの叫びが同時に上がり、男が放った矢は台与の頭を突き抜けた。何が起こったのか分からず、台与は呆然と目の前の男に見入り、次いで自分の額におそるおそる手を当てようとし、そこで改めて自分が実体でないことを知った。

「おのれ!」

 幾人もの悲鳴と怒声に台与が我にかえったとき、目の前の男の胸と腹に矢が突き立っていた。男は信じがたい速さでそのまま踵を返し、時々ふらつきながらも兵士をなぎ倒し混乱の中を駆け去った。台与は今まで衝撃のあまりに忘れていた悲鳴を思いきり上げ、自分を通り抜けて放たれた矢の持ち主を捜した。二間ほど向こうに、騎馬と数人の男達が固まって台与の方に矢をつがえていた。

「将軍、将軍、お気を確かに!」

 台与はぎくりとしてその声のほうに視線を向けた。騎馬の上にうずくまる人影が見えた。

 どっと、高鳴る心音。

「ああ、なぜ……なぜこのような敵地に、武装もせずに来られたのです」

 傍らに立っていた男が、幾人もの兵士に取り押さえられる格好で嘆いていた。

 知的で穏やかな物腰にどこか不釣り合いな装飾品や大判の衣を身にまとっているせいか、荒々しい男達の中でひときわ目立っている。さきほど刀麻に彦覡と呼ばれたのはこの男だ。

(この人が、マナシの身代わりということ……?)

「不審を……募らせるわけにはいくまい。そなたも一国の主……なら、わかるであろう。戦は、何も生み出さぬ……」

 台与の頭からつま先まで、凄まじい悪寒が走った。雷をこの身で受けたような衝撃だった。

(この……この声、まさか)

「抵抗をしなければ平和的に治めると本気で仰っていたのですか。そんな危険を冒してまで……」

「滅ぼし根絶やすことが……何の得になる。私は……ただ、やるべき……ことを、果たしただけだ……」

 どさ、という音のあとに人々の悲鳴が上がり、男が騎馬から落ちたらしいことが分かった。

 台与は喉元をおさえてゆっくりと近づいた。

(や め て)

 みせないで、これ以上視たくない――!

 だが、勝手に探り求める台与の視線がやがて倒れた男の目元に辿り着いた。男の目もまた台与を捕らえたように見えた。

 深い皺の刻まれた目尻を細め、かすかに笑むような、泣くような顔で、唇を震わせた。

「……台与……」


 台与は自分が絶叫したことを知らなかった。

 天地を切り裂くような自分の悲鳴も耳に届かなかった。

 どれほど叫び続けたのか自分でも判らないほどの時間がたち、ようやく台与の口から悲鳴がとぎれると、それを見計らったようにふわりと優雅に女が現れた。

『わらわなら、湯把の盲目的な専政など許さなかった。だがそなたが邪魔をしたせいで、湯把の思うつぼじゃ』

 台与はゆっくりと顔を上げて、日巫女をその目に捉えた。

 台与の慟哭を楽しむように日巫女は微笑する。

『さっさとその器を空けて私にお渡し。さすればこのような悲しみも苦しみも味わわずにすむぞえ』

「……黙って」

 日巫女は驚くような仕草で目を見開き、嘲笑した。『おや、わらわに命令するのか』

「――うるさい!」

 台与は渾身の力を込めて日巫女を振り払った。目の前からとにかくこの女を消したかった。

 だが日巫女の柔な体に当たるはずの腕は空を切り、思いがけず指先から走った痛烈な熱さに、台与は驚いて目を瞠った。

 台与の手は消えかけた占火を掴んでいた。

(……戻ってきたのね。鏡の世界から)

 無機質にそう思うが最後、台与は冷たい床に倒れ込んだ。そして夜になっても目覚めることはなかった。

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