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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第一章 張政
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5.台与の出奔

 台与が女となり、一人前の巫女となった年は、邪馬台にとっても大きな変革の年だった。

 以前から抗争が続いていた狗奴国くなこくとの諍いが激化し、国内のあちこちでも抗争が展開された。同盟国である伊都いと末盧まつらからの援軍も数を増し、蹈鞴小屋からは絶え間なく銀灰色の煙が空に散っていた。

 戦の指揮を取るのは、邪馬台国第一官「伊支馬いきま」であり、大国・魏から「率善中郎将」の位をも与えられた大人、難升米なしめだった。難升米は掖邪狗らが魏に渡る以前にも二度朝貢しており、日巫女の力を国々に知らしめるきっかけとなった銅鏡を持ち帰った功績がある。それゆえ、日巫女はもちろん、魏の国王からも多大な信頼を受けていた。

 台与自身はあまり馴染みのない人物ではあるが、その難升米の元に魏からの使いがやってきたということは、血生臭い世界からはかけ離れた彼女の耳にも入っていた。


「姫様、この戦、わたくしたちの勝ちですわ!」

 普段なら何があっても戦の話題などしたがらない菜於が、珍しく急き込んで切り出すのを、台与は目を丸くして見つめた。

「どうしたの……突然」

 菜於は待ってましたとばかりに拳をぐっと握り締めた。

「いえ、最初から私たちの圧勝だと言うことは目に見えていたのですけれど! けれどこの度やっと、魏からのお使いの方が黄幢を持ってこられたのです」

 聞き慣れない言葉に、台与は訊き返す。「こうどう?」

黄木きはだで染めた大きな旗だそうですわ。これは魏が味方であることを周囲に知らせるよい目印になるんだそうです。さぞかし狗奴は度肝を抜かれることでしょう」

 台与は嬉しそうに笑う菜於を黙って見ていたが、実感の湧かない戦況よりも、なぜ菜於がそんなことまで知っているのかが不思議で仕方なかった。菜於はもともと頭のよい優秀な従婢だが、所詮は箱入り巫女姫の侍女、ここまで知りえるはずがないのだ。

「菜於ってば、一体どこでそんなことを」

「まあいけない、おつとめのお邪魔をしてしまいまして。そうそう、采迦さまからお預かりした姫様あての反物を早く仕立ててしまわなくてはいけませんわね。では姫様、御前失礼いたします」

 浮かれた足取りで去っていく菜於を呼びとめる手段もなく、一人残された台与は軽くため息をついた。

(東方の敵国、狗奴国……わたしは何も知らない。婢たちすら仕入れている噂も、わたしのもとには入ってこない……)

 狗奴国が具体的にどのあたりにあるのかでさえ、台与の頭の中では覚束ないのだった。関連して出てくる単語は戦、そして名にのみ聞く狗奴の男王・彦覡ひこみこ―――ただそれだけ。おそらく父か掖邪狗か大人の誰かの手によって、情報が堰止められているのだろうが。

 それにしても不公平だと思う。

(いくらお飾りとは言え、仮にも……自分で言うのも馬鹿馬鹿しいけど、女王の後継ぎとか言われてるわたしが、何も知らないなんておかしい。わたしは知ってしかるべきだわ。与えられる情報を鵜呑みにするだけの傀儡なんかにはなりたくない)

 そう考えると、もういてもたってもいられなかった。

 そしてついに、台与は脱走を決意する。


「し、失礼いたします。お言い付けの橘の枝を持ってまいりました、姫巫女様」

 入口から垂れ下がった帳の向こうから、おそるおそる、といった風情の微かな声がした。窓際に腰掛けていた台与は立ちあがり、帳を引いた。そこには、新しく建てた台与の館に来て間もない幼い婢がいた。

「菜於様がお使いに出ていらっしゃいますので、わ、わたしが摘んでまいりました」

 もちろんそれを見計らっていたのだから当然なのだが、台与は何も知らない顔をして、婢の小さな手に握られた橘の花枝に目をやり、にっこり微笑んだ。「ありがとう。何だか急にこの部屋に緑が欲しくなったの」

 婢はもの珍しげな目で台与の部屋を見まわしている。磨き上げられた木の床と壁、日溜りの出来る窓際。紗の帳が幾重にも重ねられた入口、奥には小さく拵えられた真木の卓と呉床。どことなく簡素に見えるのは、娘一人の部屋とは思えないその広さによるものだ。巫女姫の部屋と自分の雑居小屋を比較して黙り込む婢の様子を知ってか知らずか、台与は美しい丹の模様の入った器を持ってきた。

「この水を入れ替えてきてほしいの、これに枝を差すから」

 虚ろな目で台与を見あげ、力なく頷いて受け取ろうとした婢の手をかすめて、台与は持っていた土の器を取り落とした。正確には、取り落とすように見せかけて水を婢に振りかけたのだった。かわらけは砕け、その音で婢は我に返った。

「あ……わ……」

 気の毒なほどに真っ青になった幼い婢は、釣り上げられた魚のように口を開閉させて、割れたかわらけと自分の濡れた衣を見つめた。だがこの場合、自分の服などは引き合いに出せる代物ではない。問題は、最上の主の高価な器を破損したという事実だった。

「も――申し訳ございません!」

 叩頭して震える婢を見て、台与はさすがに罪悪感を抱いた。本気で怯える娘にこれは計画だから心配することはない、と伝えたいところだが、それをするほど台与の決意もやわではない。

「いいよ、それよりも早くその濡れた衣を脱いで。体を壊されては困るから……」

「申し訳ございません! ど、どうぞご容赦を……っ」

 動転して何を勘違いしているのか、ますます頑なに額を床にこすり付ける婢に、台与は焦った。こんなところで騒ぎにするつもりなどなく、出来るだけ早くこの場から去らなければいけないというのに。

「いいから顔を上げて! 誰も裸にして鞭で打とうとは考えてないから、早くその衣を脱いで、これと着替えて」

 台与は行李から適当な自分の衣を引っ張り出して、婢に差し出した。反射的に受け取った婢は、その衣が芋麻とはいえ巫女姫の御衣というのに仰天して縮み上がったが、有無をいわせぬ迫力の台与の顔をみて引きつった顔で着替え始めた。

 そして再び婢を水汲みに行かせたあと、台与はそれまでの若草色の染衣を脱ぎ捨て、手元に残った濡れた貫頭衣にためらいなく袖を通した。小綺麗に髻華を挿した髷も壊し、梳く暇もなく首の後ろで一絡げにくくり付ける。女王になるか否かが完全に決まってから、と頑なに拒みつづけたかんなぎ独特の黥がないのは幸いだった。

(よし、誰もこないうちに行こう! ごめんねさっきの子、それから菜於、すぐに帰るから!)

 帳をかきあげ廊に出て、台与は思いきって細い階を跳び下りた。

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