48.白銅の鏡
ぱし、と木のはぜる音が、再び台与を現に引き戻す。
(誰もが行ってしまう、このクニが崩れてゆく……)
台与の知る世界はあまりにも小さかった。父親、掖邪狗、侍従たち、その限られた人々で構成された世界に、突然入り込んできたのがマナシと張政だった。
彼らを通して見る世界は眩しく鮮やかで、ときに痛かったけれど、彼らに触れて初めて多くの未知が既知になった。
その張政が去り、父親が、次いでマナシが邪馬台国を出ていった。
台与の小さな世界では、それは崩壊すら呼び起こすような出来事だった。
(お父様、どこにいるの、お願い、帰ってきて……!)
すがるような気持ちで台与は祭壇を見上げ、輝く鏡を見つめた。
日の神の象徴、白銅の鏡。光の差さない神殿でもいつも白い輝きを湛えていて、まるで清水のような鏡だと台与は思っていた。
(そして、マナシ、どうか無事でいて。生きていて……!)
木のはぜる音が、ひときわ大きく響いた気がした。
突然目の前がましろに染まる。それが鏡の光だと察して、台与は目を細め、袖で顔を覆った。
だが、小さな占火も薄暗い神殿も台与の元には返ってこなかった。
その代わりに、遠くからひどく苦しそうな息づかいが近づいてくる。
誰かが走っている――それに次いで小さく聞こえる、木々のざわめき、山鳥の啼声。
(ここは……森?)
ひらめいた瞬間、目の前に驚くべき光景が広がった。足元から巨大な布を広げたように、ましろの世界が一気に色付き、台与は深い森の中に放り出された。
まばたきもできず、台与は目の前の光景に見入った。
緑ではなく、枯色に染まった木々が、かぶりものをなくした寒そうな姿でひしめきあっている。生き物の気配はしない。届くのは、ただ遠くで啼く鳥の声と、さっきから耳元にとどまっている誰かの息づかい。
生命力のすべてを込めたような激しい呼吸に、台与の心も動かされた。
(どこにいるの……?)
台与は首を巡らせ、人の姿を探した。そこで初めて、自分の足が地面に着いていないことに気付いた。
木々と同じ高さから、台与は森を見下ろしていた。それどころか、自分のつま先さえ見えない。首を巡らせた、という感覚はあるのに、実際、からだはどこにもなかった。意識だけが、この森を逍遥しているのだ。そしてもっと高くと望めば、好きな速さで好きなように景色を見ることができた。
(森……いいえ、山だわ。河が見える……その向こう、何か輝いてる。あれは、もしかして海?)
それは果てしなく広がる大きな鏡のようだった。
初めて見る海に心奪われながら、では、ここは邪馬台ではないのだ、と台与はぼんやり考えていた。
そのとき、台与の眼下で荒々しく枯葉を踏み散らす音が聞こえた。
(誰かが走っている。あれは……)
そして台与は思わず息を止めた(ように感じた)。ひどくやつれた形相で、がむしゃらに山を駆け下りていくのは、他でもないマナシだったのだ。
彼女はとにかく後を追った。そして、彼の故郷の有様を目にする羽目になった。
山を下りるに従って近づいてくる邑々の姿。しかし、遠目からでも判るほどに、その邑々はことごとく破壊されていた。建物から黒い煙が細くたなびいているのが見える。マナシはその風景に目を向けようともせずにただ直走っていた。
やがて、彼は同郷の仲間と遭遇し、彼の死を看取った。
「生き延びろ」と、その人はマナシに言った。
死の間際、人は人でないものに最も近くなり、それゆえ最期の言葉は神言となることもある。彼の言葉は、台与の耳には途轍もない呪力を持った詞に聞こえた。
(マナシは、愛されていたんだ……故郷に、人々に……)
無性に、胸が痛くなった。様々な想いが一気に胸中を駆けめぐったが、ただ一つあきらかに思ったことは、彼が生きていてくれて良かったということ。心を締めつける痛みにも、その思いだけで耐えられた。
(あの人の遺言が神言になればいい。生きていてくれれば、いい……)
台与は目を閉じた。
だがそのとき、彼女の耳元で、ただ一言、風が囁いた。
『禍つ姫、すべてに災いをもたらすのは、そなたじゃ』と。
「誰……!」
台与は目を凝らしてあたりを見た。先ほどまでまざまざと見えた森はかけらも残っておらず、今は遠近さえ判らないこのましろの中に自分だけがぽつんと佇んでいた。影さえできない。眩しくも暗くもない。ひかりも、かげもない、ただの白い世界だった。
『なんと愚かしい娘。狗奴国だけでなく、わが邪馬台まで滅ぼすつもりかえ』
今度は声を上げなかった。だが、その口調に背筋の凍る思いがした。
知っている、この声、この口調……
「日巫女――あなたなのね」
これは鏡だ。
自分の中のすべてのものを映し出す鏡の中にいるのだと、台与は悟った。




