47.倭の娘
“間違いはない。わたしが狗奴国の王……彦覡だ”
(忌まわしい娘……お前さえ邪魔をしなければ、すべてうまくいくものを――)
くべた木のはぜる音で、台与は我にかえった。
いつ放り込んだかも分からないほど炙られた獣の骨が、衰えかけた炎の中に仄見えた。しまった、と一瞬焦ったが、軽く首を巡らせてほっと息をつく。常に独特の存在感でもって背後から台与を威圧する大巫女の姿が、いつも陣取っている場所になかったからだ。
(ああ、そうだ。戦勝のまじないのために、巫女は大御館に集められているのだった……)
それでは最初から自分はここに一人でいたのか。いつ神殿に入り、いつまじないを始めたのか、奇妙にも自分で見当がつかなかった。ずっと夢を追っているようだった。それでも体は無意識のうちにいつもやり慣れたことをなぞっていくらしい。
じきに消えそうな占火から目をそらし、台与は固まった膝を伸ばして座り直した。
(占いなんてできない……何も考えられない)
父・采迦が東国との戦に向かってから、もう一月近くになる。
出兵直後は采迦の側近が幾度もクニに残った大人たちのもとへ近況を伝えに来ていたが、日がたつにつれてその足も遠のいた。そして、出兵から数日たち、台与がやきもきし始めた頃に、総羽が一つの言伝を持ってやってきたのだ。
「采迦さまからはまだ何も連絡はないの?」
彼の娘を気遣ってか、総羽は珍しく静かな口調で切り出した。
台与は頷き、唇を引き結んで押し黙った。
「……そう悠長な時じゃないのかもしれないわね。狗奴国との……おそらく、最後の戦になるでしょうから」
「総羽さん……マナシは……」
狗奴国の名を聞くと条件反射のように彼の名が口をついた。無意識も同然だったので、返ってくる答えを深く求めもしていなかった。ただ彼の名前を呼ぶことで、その名を呼ぶことができる相手といることで、癒されるものがある気がしていた。
だが総羽は、思いがけず即答した。
「消えたわ」
「……ええそう、消え……え!?」
うつろに答えを返そうとしていた台与は、その意味を理解したとき思わず目を見開いた。
総羽はこめかみのあたりを指で押さえながら、苦々しく呟く。
「戦云々で私の気もそぞろだったのよ。今日下人に尋ねてみたら、何日か前から奴小屋にも帰ってないって。でもそれで良かったのかもね。彼の主人という張政はこのクニにはいない。そうでなくても、もう行く場所は一つでしょう? それに……あんたは、それを望んでいたんでしょう?」
総羽の言葉が、どこか遠くで聞こえていた。
何故か震える声を疎ましく思いながら、台与は笑って答えようとした。
「え、ええ……だって当然よ、あの人の故郷だもの。あの人のクニだもの……絶対に戻るべきだもの……」
喜ばしいことのはずだった。彼がこの期に及んで故郷を見捨てる人だとは思っていなかったし、こうなることが当然だと思っていた。
ここは彼とはけして相容れないクニ、そしてまた自分も、彼とはけしてまじわることのできない人間だったということだ。
そんなこと、最初から分かっていた――。
「台与」
総羽の声で顔を上げた拍子に、ひやりと頬を滑り落ちる感触があった。
こぼれおちた、言霊の代わり。
「あ、あれ」
慌てて袖で瞼を拭うが、視界はますますぼやけていくばかりだった。しまいには総羽の端正な顔までがひどく歪み、何も見えなくなってしまった。
「なにこれ、いやだ……止まらない」
何故涙なんか。そう呟きかけて、台与はあまりの馬鹿馬鹿しさに唇を歪めた。
理由なんて本当は解っている。あまりに悲しくて惨めな答えを、考えたくなかっただけだ。
(もう会えないなんて、考えたくないんだ。本当は、離れたくなかったんだ……)
あきらめないって、言ったのに。結局、あなたはクニをえらんだの。
(わたし、なんていやな女! いや、いや、もう何もかもが!)
両袖で顔を隠すようにうずくまった台与に、総羽は静かな瞳を傾けて言った。
「……台与。私は、あんたに力を貸すと言った……」
いつもの活き活きとした明るさをひそめた総羽の瞳は、思ったよりも深く、また暗かった。
「あんたはあんたなのよ。別に良い巫女であれとは言わない、後継者になるべきだとも言わない。でも、あんたは邪馬台の娘よ。このクニには……そして私たちにも、あんたが必要なのよ」
「ヤマトの娘……?」
総羽の言わんとすることの意味が読みとれず、台与は赤く滲んだ目を上げた。総羽はその瞳をじっと見据えて、囁くように言葉を紡いだ。
「……あんたは邪馬台に与えられた娘。そして、邪馬台を与えられる娘。そういって名付けたのは采迦さまだったと、父から聞いたわ」
「『台与』……この名を、お父様が?」
「話を聞いたときは、なんて不遜な名なのって思ったものだけど」
苦笑したように見えた総羽は、突然台与の肩を掴んだ。痛いほどの力がこもっていた。
「ここがあんたのクニよ。私はあんたを信じてるわ。だから、諦めずに一緒に闘うのよ、日巫女や湯把と」
少女の異様な気迫に押されて、台与は絶句したまま小さく頷いた。頷く以外の何も、今はできそうになかった。
だがやがて、総羽を焦燥に駆り立てた不安が現実となることに、このとき二人はまだ気付いていなかったのだ。




