46.狗奴国 伍
そこは木々の繁る深い森だった。そのちょうど木の上の高さから、『彼女』は彼を追っていた。
生々しいほどに聞こえる息づかい、もつれる足取り、呟く声……
どうして聞こえるのかなど考えられなかった。ただ想う人の姿を、ずっと追い続けた。
彼は走って、走って、走り抜いた。
谷を越えて山を越えて、おぼろな記憶を無意識に任せてたぐりよせ、故郷への途を疾走していた。鋭く欠けた石や山道をふさぐ枝で擦って傷つけた足から血が流れ、一面の枯草に点々と染みを残していく。
やがて山を越えた彼は、そこから見える故郷の景色に息を呑んだ。
そして、すぐに顔を背けて再び走り出す。
信じられなかった。いや、信じたくなかった。
自分こそが故郷を滅ぼす根源だったことを――贖罪などできるはずもない、あまりに大きな罪を犯してしまったことを。
獣道が下りにさしかかり、やがてどこからか漂ってくる潮の薫り。
けれど、それに混じる異質の臭いも、たしかにあった。
歯を食いしばると、瞼がびりびりと痙攣ってくる。ただ、もう足を止めることは許されない気がした。走ることで限界を迎えて死ぬのなら、それでも構わないと思った。
だが、彼はどうやら死ななかった。朦朧としてくる意識の中で、枯葉色に彩られた世界の端に、幾度も視界をよぎった白い煙の色が大きく現れたのを認めた。
生成色の肩衣――男が立っていた。
それが故郷の人間だということを見分けるのに、そう時間はかからなかった。後ろ姿からも判る、剛勇な性質をそのまま表したような大きな体躯を持った、狗奴国一の勇士。
その男は、麓の木の一本にもたれ掛かるように躯を預け、じっと邑のある方を向いていた。
「刀麻!」
彼が叫ぶと、男は振り返った。男は微笑んだように見えた。
その身体が不意に揺らいで崩れるのと、彼が男のもとに駆け寄るのは同時だった。
「刀麻、しっかりしろ! 刀麻!」
抱き留めた男の腹部に、深く刺さった矢の篦が見えた。
彼は急速に胸を締め付ける痛みに慄き、言葉をなくした。
男はゆっくりと目を開き、彼の目をじっと見据えた。
「なぜ……戻った」
その言葉は刃となって彼の胸を貫いた。本来ならそれは、彼を迎え入れるはずの寿ぎの言葉のはずだった。よく帰った、と微笑んで迎えてくれる同郷の仲間たち。その偶像をこの瞬間に垣間見ることが、これほど胸を抉るとは思わなかった。
「……いいや、お前は必ず……帰ってくると思っていた」
「刀麻、しっかりしてくれ――俺は菊池彦や小魚たちを助けに行かなければ……」
刀麻は突然力を込めて彼の腕を掴んだ。ぎょっとするほどに強い力だった。
「お前を、ここから先、へ、通すわけには……いかない」
「何を言うんだ! 気でもふれたか」
彼は掴まれた手を振り払おうとしたが、できなかった。
「『彦覡』の命令だ……。おまえは、もうこの地に入ることは許されない。どこか……遠くへ……」
「違う、彦覡は俺だ! 菊池彦は彦覡じゃない――」
混乱のあまりに彼は声を荒げた。自分が故郷に疎まれるなら、それでもいい。けれど今はそんなことを言っている場合ではないのだ。どれほど憎まれていても、せめて大切な人たちの命だけは守りたいのに。
男は突然血を吐いた。激しく咳き込むたび、喉の奥から風の啼くような音が漏れた。
彼は眦に滲む涙を堪えて、男の体を掻き抱いた。
「刀麻……! すまない……!」
うつろに漂い始めた視線を辛うじて彼の顔のあたりに寄せ、男はささやいた。
「もう、菊池彦も……小魚姫も、誰もいない……お前は、たった独りで、これから、生きるのだ。すべてを忘れても――お前が生きる限り、そこはお前のクニ……お前は――あなたは、王だ」
「やめてくれ! 俺はもう王なんかじゃないんだ……!」
「生き延びろ……我らが彦覡」
最期の言葉。それが「それ」だった。
彼は男の亡骸を枯葉で覆い、立ち上がった。
数日前に遠方から見えたたなびく煙が、この場所まで来た今では見えなかった。
邪馬台の軍はこの地を去ったのだ。
彼はきびすを返し、狂ったようにもと来た山道を走り出した。
「このままで終わらせるか……! 彦覡は俺だ、菊池彦!」
そこで、『彼女』は目ざめた。
断章 狗奴国 終




