表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
断章 狗奴国
47/67

46.狗奴国 伍

 そこは木々の繁る深い森だった。そのちょうど木の上の高さから、『彼女』は彼を追っていた。

 生々しいほどに聞こえる息づかい、もつれる足取り、呟く声……

 どうして聞こえるのかなど考えられなかった。ただ想う人の姿を、ずっと追い続けた。



 彼は走って、走って、走り抜いた。

 谷を越えて山を越えて、おぼろな記憶を無意識に任せてたぐりよせ、故郷への途を疾走していた。鋭く欠けた石や山道をふさぐ枝で擦って傷つけた足から血が流れ、一面の枯草に点々と染みを残していく。

 やがて山を越えた彼は、そこから見える故郷の景色に息を呑んだ。

 そして、すぐに顔を背けて再び走り出す。

 信じられなかった。いや、信じたくなかった。

 自分こそが故郷を滅ぼす根源だったことを――贖罪などできるはずもない、あまりに大きな罪を犯してしまったことを。


 獣道が下りにさしかかり、やがてどこからか漂ってくる潮の薫り。

 けれど、それに混じる異質の臭いも、たしかにあった。

 歯を食いしばると、瞼がびりびりと痙攣ってくる。ただ、もう足を止めることは許されない気がした。走ることで限界を迎えて死ぬのなら、それでも構わないと思った。

 だが、彼はどうやら死ななかった。朦朧としてくる意識の中で、枯葉色に彩られた世界の端に、幾度も視界をよぎった白い煙の色が大きく現れたのを認めた。

 生成色の肩衣――男が立っていた。

 それが故郷の人間だということを見分けるのに、そう時間はかからなかった。後ろ姿からも判る、剛勇な性質をそのまま表したような大きな体躯を持った、狗奴国一の勇士。

 その男は、麓の木の一本にもたれ掛かるように躯を預け、じっと邑のある方を向いていた。

「刀麻!」

 彼が叫ぶと、男は振り返った。男は微笑んだように見えた。

 その身体が不意に揺らいで崩れるのと、彼が男のもとに駆け寄るのは同時だった。

「刀麻、しっかりしろ! 刀麻!」

 抱き留めた男の腹部に、深く刺さった矢のが見えた。

 彼は急速に胸を締め付ける痛みに慄き、言葉をなくした。

 男はゆっくりと目を開き、彼の目をじっと見据えた。

「なぜ……戻った」

 その言葉は刃となって彼の胸を貫いた。本来ならそれは、彼を迎え入れるはずの寿ぎの言葉のはずだった。よく帰った、と微笑んで迎えてくれる同郷の仲間たち。その偶像をこの瞬間に垣間見ることが、これほど胸を抉るとは思わなかった。

「……いいや、お前は必ず……帰ってくると思っていた」

「刀麻、しっかりしてくれ――俺は菊池彦や小魚たちを助けに行かなければ……」

 刀麻は突然力を込めて彼の腕を掴んだ。ぎょっとするほどに強い力だった。

「お前を、ここから先、へ、通すわけには……いかない」

「何を言うんだ! 気でもふれたか」

 彼は掴まれた手を振り払おうとしたが、できなかった。

「『彦覡』の命令だ……。おまえは、もうこの地に入ることは許されない。どこか……遠くへ……」

「違う、彦覡は俺だ! 菊池彦は彦覡じゃない――」

 混乱のあまりに彼は声を荒げた。自分が故郷に疎まれるなら、それでもいい。けれど今はそんなことを言っている場合ではないのだ。どれほど憎まれていても、せめて大切な人たちの命だけは守りたいのに。

 男は突然血を吐いた。激しく咳き込むたび、喉の奥から風の啼くような音が漏れた。

 彼は眦に滲む涙を堪えて、男の体を掻き抱いた。

「刀麻……! すまない……!」

 うつろに漂い始めた視線を辛うじて彼の顔のあたりに寄せ、男はささやいた。

「もう、菊池彦も……小魚姫も、誰もいない……お前は、たった独りで、これから、生きるのだ。すべてを忘れても――お前が生きる限り、そこはお前のクニ……お前は――あなたは、王だ」

「やめてくれ! 俺はもう王なんかじゃないんだ……!」

「生き延びろ……我らが彦覡」



 最期の言葉。それが「それ」だった。



 彼は男の亡骸を枯葉で覆い、立ち上がった。

 数日前に遠方から見えたたなびく煙が、この場所まで来た今では見えなかった。

 邪馬台の軍はこの地を去ったのだ。

 彼はきびすを返し、狂ったようにもと来た山道を走り出した。

「このままで終わらせるか……! 彦覡は俺だ、菊池彦!」



 そこで、『彼女』は目ざめた。

断章 狗奴国 終

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ