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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第六章 狗奴彦
42/67

42.沈みゆく声

 雪が積もる。

 濡れた掌や頬に激しく打ち付けるその冷たさよりも、確かに感じる温度。

 そして伝わる、重なる、一つになる。ちいさな鼓動。

 逢ってはならなかったのだ――それを痛いほど思い知ってもなお、求めずにはいられなかった。


「……げよう」

 耳元でささやかれた言葉に、台与は顔を上げた。泣きじゃくって自分でもひどい顔だとは分かっていたが、激しい風に攫われた言葉が、ただでさえ放心気味だった台与の心には届かなかったのだ。

「え……なに……?」

「逃げよう、と言ったんだ」

 マナシの眼差しが、今はまっすぐに台与の目の奥深くまでを射抜いていた。台与は身を竦め、反射的に絡めていた腕を離した。だがそれを予期していたかのように、マナシは細い手首を捕らえた。

「お前を、狗奴へ連れて帰りたいんだ」

 腕と視線を絡め取られたまま、台与は息を飲んだ。刹那、さまざまな感情が頭の中を駆けめぐり、その中には確かな歓喜があった。手に手を取って、マナシの故郷へ行けるなら、これほど幸せなことはないと思った。

 けれど。

「……だめ。わたしは一緒に行けない」

 掴まれた手首に一瞬痛いほどの圧力がかかり、それから萎えたように戒めが解かれる。

 自由になった手首を押さえて、台与はマナシの疑惑に満ちた眉間を見返した。

「わたしは行けない。だってわたしは、この国の」

「言っただろ、巫女は俺が殺したんだ! お前はただの婢の娘のトヨ、それでいい。これ以上この国にいてどうなるっていうんだ、あんなに思い詰めておきながら」

 捲し立てるマナシの言葉に、台与は頷いた。

「あなたに憎まれないだけでいい。あなたが許してくれたから、それだけで生きていける。……何もかも捨てて一緒に行けたらって思う。でもわたしは――」

 あなたのそばにいるのは辛い。この中にいるものをあなたが知ったとき、憎まれるのが怖い。

「……お前の言うことが分からない……」

 苦々しげに呟いて、マナシはもう一度腕を伸ばした。小さく震える指が、ぎこちなく台与の髪に触れる。


「台与ー!」

 二人の間に横たわった沈黙を引き裂いて、すぐ近くで台与を呼ぶ声がした。

 二人は思わず腰を浮かせて、声の方を振り返った。そこで初めて目にしたのは、先ほどまでいた殯屋の方角からたなびく細く白い煙だった。降りしきる雪の中をゆらゆらと迷いながら、凍てつく夜を昇りつめてゆく。

「あれは……?」

「台与ー! どこにいるの!」

(総羽さんの声だ)

 再び夜に響いた声で、台与は弾かれたように体を起こし、マナシの肩を押した。

「早く行って! 湯把は狗奴国を殲滅する気よ。今すぐに帰れば、きっとまだ間に合う。あなたのクニを守って」

 狼狽をあらわに、マナシは叫んだ。「解ってる! でも、俺は諦めない」

「だめ、早くクニに……」

 木々の間に飛び込んで、マナシはもう一度振り返る。

「あきらめない。お前が俺を呼ぶまでは」


「台与!」

 茂みを掻き分けて走ってきた白い人影が、台与の姿をみとめて足を止めた。

「あんたこんな所に……この寒い中、そんな格好で」

 顔色を変えて駆け寄ってきた総羽は、身にまとっていた倭文しどりの大布を台与の肩に巻き付けた。その時に触れた台与の氷のような体温に、思わず指が竦む。このまま氷漬けになってしまうのではないかと思うほどに冷たい。実際どれほど雪の中にいたのか、細い肩や梳きおろしの長い髪には雲英きらのように光るかけらが数え切れないほどまとわりついていた。

「馬鹿よ、あんたはもう……!」

「総羽さん、館に帰ったんじゃなかったんですか」

 支えられながら身を起こし、台与が尋ねると、総羽はすいと鋭い目を殯屋の方に向けた。

「喧噪が聞こえない? 湯把のやつが、火が出たと言って、いま殯屋のほうは大騒ぎよ。あいにくというか幸いというか、もう消し止められたんじゃないかしら。これだけたいそうな墓を作っておいて、肝心の日巫女の体が燃えちゃったんじゃ洒落にならないからね」

「火……」

「こんな雪の日に、どうしてあんな場所から火が出たの。そしてどうして湯把があそこにいて、あんたがこんな所にいるの」

 台与は足元に白く積もり始めた雪を見ながら答えた。

「……湯把が……突然来たんです。あの人、日巫女の力を持ったわたしを利用しようとしている。だからここまで逃げてきて……逃げ出す拍子に、たしか……燭台を蹴飛ばして、それでそこから火が……」

 そうだっただろうか。答えながら、台与はその記憶がどこか根本的に違っている気がして仕方なかった。蹴飛ばしたときには火は消えて、突然闇に覆われて、それに恐怖を感じたはずだ。

 そう、あれは確か消えかけた火が突然……

「消えたと思っていた火が、熱で床に燃え移ったみたいで……いきなり発火したんです、すごい音を立てて」

 そう答えたとき、踵から何かがぞくりと背中をはい上がる気配がした。同時に衝き上げた寒気が、一気に全身を駆け抜ける。

(わたし、あのとき、何か……)

 何か願わなかったか。とにかく何でもいいから――救いを、と。


 総羽は、急に震えだした台与に気付いてその肩を強く抱き寄せた。

「とにかく、無事で良かった。だからあんたを一人にさせたくなかったのよ、このばか。よりにもよってこの私を追い払うようにして。そのつけが回ってきたと思いなさいよ」

「うん……」

 台与は総羽の肩に頭を載せ、小さく頷いた。今更涙が流れて止まらなかった。

 彼の言葉が、行動が、どれほど嬉しかったか。騙し続けた自分を助けてくれた。ただの娘としての台与を見出してくれた。大切な故郷へ一緒に行こうと言ってくれた。寒さも辛さも、全てが夢のように感じられた。

(わたしはもう二度と、巫女にはなれない……)

 出会ってしまったから。もう二度と会うことはなくても、この出会いが台与の運命の全てを変えてしまったのだ。


 結局台与は総羽の舘で冷えた身体を暖め、夜明けも近い頃にほんの少し仮眠を取った。大葬の開始を知らせる鐘の音で再び目覚め、潔斎の続きとしてなにも口に入れぬまま、葬送の場へと向かった。

 日巫女の塚は目を見張るほど巨大なものだったが、台与の心に余りあるほどあった苛立ちもやるせなさも不思議と影をひそめて、今はただ微かなもの悲しさだけが胸の奥で滾々と山泉のように溢れ出ていた。

 日巫女の亡骸の収められた棺がひっそりと土の中へ沈み、幾人もの嗚咽もまた土の底へと沈みゆく。台与は目を閉じ、黄泉から響く声にじっと耐えた。

(ごめんなさい。許してくれなんて言えない……わたしは生きてしまった、日巫女を生かしてしまったんだ)

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