41.真名
雪が、二人の肌を真っ赤に染め上げた。感覚がないままもつれ合うようにして同じ動きを繰り返していた台与の脚は、杜の木の根に阻まれてその歩調を大きく崩した。
拍子に離れる手と、手。
マナシは立ち止まり、傍らの木にすがるようにへたり込んだ台与に目を向けた。互いの息が、喉の奥の鳴るような音とともに暗い杜の中で白く舞い上がり、冷たい烈風がそれをさらっていく。
「どうして」
台与は掠れた声を漏らした。顔は地面に向けたまま、雪が足元に音もなく積もってゆくのを見ていた。
「どうして、戻ってきたの?」
マナシは答えなかった。
「わたしは……死んだ方が良いのに」
いまだ台与の手にはマナシの短剣が握られていた。台与を殺すべきもの。それはまだ自分の役目を果たせないまま、小さな手の中に静かに収まっている。
震える手で柄を握って、台与は呻いた。
「……死ねなかった」
自分で自分に向けて剣を振り上げた時の、何とも言えない虚無の気持ち。そして、次にあの夢見と同じ、瞬きの連続で現れる映像――自分の喉に突き刺さる刃、飛散する鮮血、その血の赤さ、打ち伏した日巫女の――。
全身をとんでもない悪寒が走って、柄を握る手からみるみる力が抜けた。
恐怖で竦んだ体のあちこちが、悲鳴を上げた。死にたくない。
――いやだ、わたしは、死にたくない!
「どうして、あのときに、一息に殺してくれなかったの」
立場も忘れて、台与は涙で赤く滲んだ目をマナシに向けた。
マナシは夢でも見るような呆然とした眼差しで、地面に崩れ落ちた少女を眺めていた。見つめる、というには、あまりに焦点の合わない視線だった。
「今からでも遅くない、マナシ」
台与は短剣を持つ腕を、マナシに向かって伸ばした。
「あなたの願いを――わたしの願いを、叶えて」
憑かれたような烈しさを持つ眼差しに打たれ、マナシは我にかえって叫んだ。
「何を言ってるんだ、お前はおかしい! それがお前の願いだって……?」
明らかに狼狽して、それでも確かな足取りでやってきたマナシは、台与の傍らに跪いた。
自分の中の何かを確かめるように、俯いた少女のかんばせを覗き込む。雪が長い黒髪や白い頬にまとわりついて、小さな雫になってこぼれ落ちていく。
それまでに見たことのない少女の表情、しかし紛れもない、彼の知る婢の娘。
小さなくせに生意気で、わかったような口を聞いて、そして、いつの間にか自分の一番近くまで来ていた。孤独を運命づけられた彼に、まるで呼応するように現れては消えた不思議な少女。それが、ついに目の前で本当の姿を示し、また彼からは一番遠い存在であるということを証したのだ……。
「あなたにしかできない。わたしはもう、自分では死ねない。死ぬのは怖いの」
身体を二つに折り、辛うじて聞き取れるほどの声で台与はささやいた。
「でも、マナシなら構わない。怖くない。わたしが、台与という巫女姫であることの証を消して。あなたを欺いて、騙し続けたことの証を、その手で消して。お願い……」
マナシは二、三歩後退り、しばらく蹲った台与を見下ろしていた。だがやがて、伸ばされた彼女の手からひったくるようにして短剣を奪うと、それを台与に向けて振り上げて――
何のためらいもない速さで、その剣を木の根の泳ぐ地面に突き立てた。
目の前に突き立った剣に、ひとひらの雪がそっと舞い降りる。
信じられないといった目でそれを見て、台与は目の前に跪く青年を見上げた。
彼は、微笑んでいた。
「台与姫は、俺が殺したんだ、この手で……この剣で」
その手が台与の頬に触れる。手を握られたときと同じように、少しも冷たいとは思わなかった。
その指は不器用な動きで涙を拭い、やがて両手で台与の冷え切った頬を包み込む。
「騙されたことは許せないと思った。でも、殺せるはずなんてないんだ……。お前は俺の中で、いつものお前以外の誰でもないから」
拭ったはずの涙が、台与の目からますます溢れ出して、マナシの両手を熱く融かす。
「……でも、だって」
「それに、どうしても会いたかった」
思いがけない言葉の連続に、台与は思わず息を詰めた。目を丸くした台与に、マナシはどこか悪戯で、かすかに切なさの混じった微笑みを返す。
「――名前、聞きたかったんだ……。聞きたいことがあるって、言っただろう?」
台与は口元に手を当てて何かを堪えるように目を閉じ、深く息を吐いた。
震える手を伸ばし、マナシの首に腕を回す。
そうしてその耳元で、小さく名前を、ささやいた。




