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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第一章 張政
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4.禊の川原

“台与――――それがあなたの名だ”

 数日ぶりに浴びる陽光に目を眇めて、台与は忌屋をあとにした。藁と血の臭気の中に居続けたせいで、頭のどこかがずっと麻痺したような状態だった。

 しきたりの通りに菜於を一人だけつれて川の上流へ向かった台与は、菜於を離れた土手の上に見張りに立たせたあと一人でせせらぎの中に入って行った。ここは村の娘達がみそぎに訪れる川原よりも山深いところにあり、滅多に人はやってこない。巫女の禊はとても神聖な儀式で、人に見られると穢れると言われていたからだ。

 誰も見ていないと思えば気は楽だった。台与は白い裳裾を乱暴に腿までたくしあげ、水飛沫も気にせずにざぶざぶと川の中心まで歩いて行った。足元をすくわれるほどではないが、流れは割と早い。

「つめたーい」

 雪融けたばかりの山の水は背筋が凍るほど冷たく、すぐに両足ががたがたと震え出す。真冬でなくてよかった、と心底思いながら呪を唱えてみるが、歯の根がうまく噛み合わずガチガチとしか鳴らなかった。

(誰も見ていなくて良かった……なんて、情けない巫女なんだろう)

 掴んでいた裳裾を放すと、白い衣はふわりと舞って川面に広がり、流れに飲まれて足首にまとわりつく。台与の透き通るように蒼白い肌も、澄んだ氷の水で桃色に染まっていた。さっさと引き上げよう、ときびすを返した台与はしかし、急に一歩も動けなくなった。

(一人になれることは……もう、そうそうないのでは)

 足もとにたなびく白い衣を見つめながら、台与は唇を噛み締めた。忌みの明けたその日から、台与は日巫女の正統な後継者として名乗りをあげることになる。これまで以上に衛士も従者も増えるだろう。

(……わたしもいつかこの烈しい流れの中に、飲み込まれて流されてゆくのだろうか。それとも、邪馬台という流れを作る日巫女様にしがみついて、いつか大海まで辿りつくことが出来るのだろうか……)

 考えて、台与はふっと嗤った。

「できるはずがないじゃない。この国を導くなんて、命を賭しても出来ない身のくせに」

 ずっと、心に押しとどめていた闇が言霊となってぽろりと転がり出た。慌てて両手で口をふさぐものの、その行為とは裏腹に、どこかの重荷が削られたようなふとした軽さが台与を包んだ。

(そうか……わたしはこれをずっと言いたかったのね。誰でもいい、解ってほしい。けれどそれは許されないから)

 せめて、言葉にする勇気がほしかった。

「一人で言ったって、どうしようもないのにね」

 年に不相応な自嘲を漏らして、目を伏せる。これ以上、もう何も考えたくなかった――すべてをこの流れの中に置き去りにして、忘れたかった。

 しばらく俯いたまま微動だにしなかった台与は、細く目を開けて、小さく呟いた。

「……死んでしまいたい」


 その時突如、対岸の茂みの中で木の葉ずれの音がした。深緑の枝葉が大きく騒ぎ、葉や小枝がいくつも流れの中に舞い落ちる。台与は仰天して後ずさり、川石で足を滑らせて激しく転んだ。強烈な冷感が喉まで凍らせて叫び声すらでなかった。

 辛うじて呼吸だけは許された体勢で、台与はじっと対岸に目を凝らした。

「誰、誰かいるの?」

 台与が震えを押し隠して気丈に声をあげると、それに応えるように茂みがしんと静まる。

 そしてその一瞬の静寂の後に現れたのは。

(男……!)

 掖邪狗とは違う、けれど彼よりもまだ若い、少年の面影を残した男がそこにいた。


 突然の見知らぬ若者の出現に、台与は驚きも危機感も通り越した風情でむしろ呆然とへたり込んでいた。端から見ればどれほど無防備に見えたことか計り知れないが、幸運にも相手の男も微動だにせず、じっと台与を見つめていた。

 年の頃は二十歳、もしくはそれよりもまだ若い。鈍い色の肩衣は汚れ、無造作に一つに束ねた髪は乱れて、少しだけげいの施された顔にもふりかかっている。腰には麻の紐で結わえられた小さな鞘があった。

 しばらく声もなく見つめあったあと、若者はふいにきびすを返して茂みの中に消えた。驚くほど静かな身のこなしだった。それとほぼ同時に、丈高い葦を掻き分けて菜於が土手を駆け下りてきた。

「姫様? 先ほどなにか物音が……まあ、姫様!」

 菜於が川中まで駆け寄ってきて、へたり込んだままの台与を助け起こした。菜於の体温に触れてやっと自覚したのか、急に手足ががくがくと震え出す。寒いというよりは、肌に触れる空気が痛かった。

「あ、足を、滑らせて、転んでしまったの……」

 訊かれもしないのに、台与は弁解の口調で言っていた。菜於は冷え切った台与の身体に腐心していたため、その微妙な違和感には気付かなかったようだ。

「おいくつになられても姫様はそそっかしいですね、せっかく一人前になられたのに。ああ、それよりも早く火を熾して温まらなければ……歩けますか? 足元にお気を付けて」

 菜於の声はゆっくりと台与の意識から離れてゆき、反対に、先ほどの情景がまざまざとまなうらに甦る。意識に烈しく焼き付けられた白昼夢のようだった。

(邪馬台の人じゃないのかな?)

 頬や腕の黥が、微妙にこのクニのものとは違うように思った。とはいえ、台与のよく知る男性は父親と掖邪狗くらいのものだから、あまりあてにならない勘ではあるが。

 だがそれ以上に、あの眼。

 邪馬台の男であれば、巫女である自分をあのように烈しく凝視したりはしない。射るようなあの眼差しは他の誰とも違う。掖邪狗でさえ、あのように自分を見たことはなかった。

(誰、って訊けば良かった。どうして何も言えなかったのだろう……)

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