39.殯屋の攻防
「――お前」
顔を上げた台与の前に、まだ短刀の柄を握りしめたまま、崩れ落ちた台与に覆い被さるようにして立っている青年がいた。紛れもない、マナシだった。
かすかな燭を逆光に浴びて、その表情は疲れ果ててひどく憔悴しているように見えた。
「あのときの巫女……? いや、まて――まさか、お前」
もう台与の顔を隠すものは何もなく、どうすることもできなかった。
「……マナシ」
その声を聞いて、マナシは怯えた獣のように飛び退った。愕然と見開かれた眼だけが台与の心を突き刺す。
「お前――お前だったのか、どういうことだ」
「マナシ、わたしは」
「お前が、今まで俺を騙していたのか!?」
その激しい叫びに、台与は答えを失った。違うと言ってもそれが正しいとは思わない。たとえ意図があって欺くつもりではなくても、言わずにいたのは自分なのだから……
無言のままじっと自分を見据えてくる台与の瞳を、マナシは猜疑にあふれた眼でしばらく見返してから、急に背を向けた。
「マナシ、待っ――」
台与の声も、もう届かない。駆けだした彼の姿は夜の闇に融け、残された少女は身を起こすこともできずにその背を見送った。
(わたし、どうしよう……)
開け放された扉から激しい風が吹き込んでくる。ときおり白くちらちらと光るものが、その中を舞っているのが見えた。身を打ち付ける風に襲は音を立てて揺れ、横たわる日巫女の骸布も吹き飛ばされそうなほどだった。
氷のような風になぶられた髪が台与の視界を遮る。けれど、何も見ようとしない台与の意識にはとどまらない。
(マナシは行ってしまった、わたしは彼を裏切った……みんなを裏切ったんだ)
これからのことなど、何も考えられなかった。
自分を見たときのあのマナシの眼だけが、今の台与の脳裏から離れようとはしなかった。
どれくらい、魂の抜けたような状態で座り込んでいただろうか。
体を打つ氷温の風が、はたと途絶えた。その瞬間に、今まで感じなかったはずの寒さが床から急速にはい上がってきて、台与は身震いをして襲を掴み、そのままのろのろと立ち上がった。
燭の紅い炎を映し出した、水鏡のような短刀が、目の前の木壁に突き刺さっていた。本当ならこれが台与の体を貫いて、すべてを終わらせるはずだった。
(……どうして殺してくれなかったの)
台与は柄に手を掛けた。軽く引いただけでは抜けそうにないほど、それは深々と木を抉っていた。
彼は本気だったのだ。
(わたし、ばかだ)
つなぎ止められた白い襲を抱え込み、顔を埋めて、台与は声にならない声で呻いた。
(マナシに害をなして憎まれるくらいなら、死んだ方が良かったって思ってる……)
ひらめくように、気配を感じた。
台与は息を吸い込んで止めた。止めようという意思などなかったが、勝手に喉が痙攣を起こして止まった。
目を瞠いて扉の方を振り返ると、そこには妙にこの陰湿な殯屋にはそぐわない男が佇んでいた。何をするでもなくただ立って、台与を見ていた。風がやんだのは、その男が扉を閉めたからだったのだ。
「湯把!」
男はうっすらと微笑んだ。
初めて台与が正面から見た湯把は、ひどく華奢で、笑えば一見して男か女か判らない顔立ちをしている。優しげなまなざしは台与に向けられていた。
だがそれを見た台与は反射的に突き立てられた短刀の柄を握りしめ、力一杯引き抜いた。
戒めを解かれた襲が、大きく翻りながら床を覆う。台与の足元に白くぼんやりとした灯りが点ったようだった。
「ここは巫女しか入れない清浄の地。出ていってください」
「何を怯えていらっしゃるのです、台与姫。私は日巫女様付の巫覡で、今はこのクニの主だ。どんな結界であれ、入れぬはずはないのですよ」
ゆったりとした動きで、湯把は一歩踏み出した。台与は詰められた間を元に戻すように壁に沿って後退り、短刀を胸元に引き寄せた。
「それならわたしが出ていきます。そこをあけてください」
扉の前に立ちふさがる湯把を見て、台与はともすれば震え出しそうになる両手に力を込めた。青銅の剣の、冬の池に張る氷のような冷たさは、柄にも染み渡って、台与の手を白と赤にくっきりと色分けた。
湯把は台与に向かって穏やかに微笑んだ。
「そう急かれることもあるまい。私はあなたと話すためにここまで来たのですから」
台与は無言で眉を寄せた。湯把の言わんとすることが読めなかった。
「単刀直入に言いましょうか?」
湯把の微笑みのかたちをした顔を、台与は警戒に満ちた眼差しで見つめた。たとえ何を言われようと、湯把には動揺の一片でも見せるつもりはなかった。
だが彼の口から出た言葉は、台与の厳戒の隙をついてするりと入り込んできた。
「あなたには、わたしのもとに来ていただきたい」
「………え?」
元々白い台与の顔も、このときばかりは血の気の兆しすらない状態になった。
言われた意味が解らない。
口を開けたまま固まってしまった台与を見、やれやれとでも言いたげに肩をすくめて、湯把はまた一歩近づいた。
「巫女であること、そして後継者であることを放棄して、私の妻になって欲しいと言っているのです」
台与は逃げることも忘れて立ち尽くした。わけが分からなかった。
何故湯把が、最も危険であるはずの自分をそばに置こうというのか――それではまるで刺客を賓として扱うようなものではないか。
台与は必死にありとあらゆる考えを巡らせたが、余計に混乱しただけだった。
それから咄嗟に口をついたのは、当然とも言える生理的感情だった。たとえどんな有利な立場に立てるとしても、台与にとってはそれは最悪の待遇に違いない。
台与は、まぎれもなく湯把が大嫌いなのだった。




