38.葬の夜
“台与姫は俺が殺したんだ、この手で……この剣で”
深く深く、杜のざわめく音を聞く。
台与は目を開けた。殯屋の木戸ががたがたと揺れ、静の空間に歪みにも似た音がぶつかってくる。
(ひどい風……)
一人身を起こし耳をすます。昼夜あれほど騒がしかった殯も十日目に入ると、人々もさすがに疲れるのか、今はもう何も聞こえなかった。おそらくはそれぞれ家に帰って休眠をとっているのだろう。明朝には大葬が始まる。
(もう夜も深い。夜明けまであとどれくらい……?)
台与は壁にもたれ、小屋の隅に座り直した。
総羽と他の巫女に「夜の間は私がいるから先に休んで」と引き取ってもらってからもう数刻が経とうとしていた。勘のいい総羽は訝ったが、台与が一人で考えたいこともあると言うと唇を尖らせたまま出ていった。
(こんな風に、この人と二人になるなんてね)
台与の視線の先には、殯屋の隅に置かれたかぼそい燭に照らされて、白い布が浮かび上がっていた。
十日あまりすると小屋の中には饐えたような異臭が漂ってきて、それを認めた巫女が大葬を行う事を宣言するのだ。遺体が腐食するまでは再生を信じる、それがこのクニの(そしてこの時代の)掟だった。
台与はゆっくり立ち上がって横たわる日巫女に近づき、その布に包まれた体を見下ろした。今となって布を剥ぐ勇気はなかったが、何日もつきっきりで過ごしてきたせいで抜け殻を直視することには慣れてしまった。
「日が昇ったら、さようならね。きっとあなたのために多くの奴婢たちが殉ずることを強いられるのね……」
完成した巨大な塚には、日巫女の棺がおさめられる空洞の他に、いくつもの穴が無数に開いているという。死者が黄泉路を歩むときに、ともに従者を連れてゆこうというのだ。
「……本当に、ばかみたい。総羽さんの言うとおりだ。だってわたしはここにいるのに。わたしの中に、あなたがいるのに……どうして他の人たちが死ななきゃならないの?」
総羽があれほどまでに激しい癇癪をおこした理由の一つが、そういうものなのだと台与には解っていた。この抜け殻を埋めるための塚を作った奴婢たち、そのどれほどの命が地の底に沈められるのか。一体何のための命なのか。
「きっとあなたはこう言っても何も感じないんでしょうね。でも大丈夫、彼らを無駄死になんてさせない」
光の映らない静かな瞳で微笑んで、台与は両手を組んだ。
「彼らの命を助けることはできなくても……あなたを黄泉へ連れていくことが、今のわたしにはできるわ」
そう、やがて彼が来る。
彼の手で、あなたはわたしと殺されるのだから。
台与は白い襲を深くかぶりなおした。顔が見えて、彼が躊躇わないように、完全に覆ってしまわなければならない。そしてできることなら、自分が死んだあとも彼に後悔など残したくはない。そのために、謁見の時と同じ白粉と丹を念入りに使って、可能な限り素顔から遠ざける努力をした。
(こういうのを……何て言うんだろう)
恋と呼ばれる感情がこの気持ちなのかとも思ったが、ずっと考えているとそれはどうも当てはまらない気がする。
今でも掖邪狗は台与にとって憧れの人で、以前のような乞い求めるような気持ちはなくても、いつでもそばにいたいと思える安らぎがある。それを恋だと思っていたし、それ以外とは思えなかった。
けれど、掖邪狗に対する気持ちをそう呼ぶなら、この想いはそんなものではなかった。
台与のもつ全ての感情を凌駕する。運命の激流に逆らうことさえできる。
それほどの力が湧いてくる、深い深い源にこの想いがある。
(こんなときでも、早く逢いたいと思ってるんだな……わたし)
台与は目を閉じた。早鐘を打つ胸の鼓動が、どこか遠くで聞こえるようだった。
何も怖くはなかった。
風の音が。
止まる。
隅の燭がゆらりと揺れる。
台与は振り返らなかった。待ち望んでいたものを目の前にする歓喜で、体が小さく震えた。
扉から吹き込んだ嵐の前触れが、饐えた殯屋の中を巡った。
それとともに、夜の闇のなかから幻のように現れる人影。
「……西の姫、台与だな」
その声は台与の想像に違わぬ、たった一人の声。
いつもまっすぐで、ただ自分の決めたことをやり通す強い人。
台与は何も答えずに、少しだけ首を巡らせた。それで肯定の返事になると思った。
「お前に何も恨みはないが……クニのために、死んでもらう」
しばらくの沈黙ののち、地を蹴る音が響いた。
(解放されるんだ、わたしは)
(他でもないあなたの手で!)
肩に激しい衝撃を感じたのも束の間、勢いで背が壁に叩き付けられた。
右の肩を押さえられた台与は、息を止め、触れた部分の熱さだけに集中した。
(最期に逢えるのが、あなたでよかった……)
振り下ろされるであろう刃の切っ先と、ともに与えられる命の終焉を思う。
それでも最後に走り抜けた感情が、台与の唇を微かに震わせた――ことばのかたちに。
すべてが終わると思った。この瞬間に。飛散する血飛沫を浴びたときに。
だが、まるでひどくゆっくりとまばたきを繰り返したような、何とも現実味のない目の前の情景の中で、彼は見た。刃の先の、白い襲のかげに隠れた小さな紅い唇が、言霊を紡ぎだした刹那を。
確かな音として聞こえるものではなかった。しかし、彼は天啓のごとくそれを読み解いた。
『ごめんなさい』
統率された彼の動きはその瞬間に散った。すでに振り下ろされていた右手の刃は、彼の最大の抵抗の甲斐あってわずかに軌道を逸れ、舞い上がった襲を貫いた。少女の左頬をかするほどの真横だった。
まるで時が止まったようだった。
台与はゆっくりと膝を崩し、壁に貫き止められた襲だけをそこに残して、ずるずると床にへたり込んだ。




