36.策謀の邪馬台
マナシの元から駆け去った台与は、やがて足を止め、何度も腕で顔をこすったあとふらふらとムラの方へ歩き始めた。涙は数粒こぼれ落ちただけで止まった。目の前が霞むような気もするが、何も考えなければこのままどこまでも歩いて行けると思った。
(ムラで見とがめられたらどうしようか……)
そんなことを考えつつも真面目に対処を練ることもせず、台与はまだ喧噪さめやらぬ人々の中へ一人歩いていった。
(マナシ、大丈夫かな……殯の日まで林の中にいるつもりかな)
(来てくれるよね? ……信じてもいいよね)
満月の夜に木の下で彼を待ったことが思い出されて、あのときの呆れたような彼の声が耳に蘇った。男を簡単に信じるものじゃない、とぶっきらぼうに呟いた彼の顔が、今思えば妙におかしくて笑えた。
その小さな笑い声で、叫ぶような声で話していた人々は目を瞠いて押し黙り、林の方を振り返った。そして誰もがその異様に顔色を変えた。全身赤黒く染まった少女が、見るも危うい足取りでムラの方へと歩いてくる。
「なんだ、あれ」
「汚らしい小娘だな。このムラの娘か? いや、見ない顔だな」
顔を見合わせて囁きあった人々は、台与が静まりかえったムラの土を踏み集団の隣を通り過ぎようとしたところで呼び止めた。
「そこの娘、どこのものだ。この先は首長と姫の御館だぞ」
台与はその言葉にこくりと頷いて通り過ぎようとしたが、一人の男に肩を掴まれて阻まれた。
「おい、これ以上行くな。お前なんかが許可なく入れるようなところじゃない」
台与はその手を払って振り返った。「触らないで……汚れてしまう」
それは血で汚れた自分に触れば汚れてしまうからという意味の、男を気遣っての言葉だったのだが、男は勘違いしたらしく顔色を変えた。
「なんだと!? この汚らしい小娘め、叩き出してやる!」
男が拳を振り上げた。心も身体もすっかり憔悴していた台与は、ただぼんやりとその手を、そしてその向こうにきらめいた太陽の光を見ていた。
「指一本でもこの方に触れてみろ、その首を楼観に吊るして鳥の餌にしてやる」
台与の目前に振り下ろされた拳が、横から飛び出した別の手に掴まれて紙一重で止まった。男は眉をつり上げて自分の邪魔をした声の主を睨み、その口をだらしなく開けて絶句した。周囲の者は慌てて地に伏せ額を土にこすりつける。
「ご無礼をお許し下さい、掖邪狗さま……!」
台与はふわりと視線を漂わせて男の手を掴んでいる腕をたどり、その人物を眺めた。珍しくも見るからに不機嫌な顔をした青年が男を睨め付けている。男は腕を掴まれているせいで叩頭したくてもできず、蛇に睨まれた蛙の状態で竦み上がっていた。
「ヤヤコ……」
「よいだろう掖邪狗、離してやりなさい。その姿では無理もない」
彼の後方から清々しく通る声が響き、掖邪狗はどこか憮然とした顔で振り返って答えた。
「ですが首長、こいつは姫を……」
人々はひっと声を詰め、手を震わせて地面にはいつくばった。数人の婢を従えて現れたのは、普段櫓の番や馬の世話を任されている彼らにとっては、近づくことすら躊躇われるほどの人物だったのだ。
「よい、離せ。そなたらはさっさと持ち場にゆくがよい、この混乱に乗じて何を企む輩がいるとも限らんからな」
強い口調に掖邪狗はしぶしぶといった風情で手を離し、男達は転がるように走り去っていった。
「おとうさま……?」
台与は首を傾げ、まじまじと男を見つめた。髪には白いものが混じり、深い皺の刻まれた口元には僅かに違和感を感じたものの、その精悍な姿は以前のままだった。
女王日巫女の実弟であり、このクニの実質上の為政者、采迦。それが台与の父だった。若い頃は大乱で多くの功績を挙げ、姉の即位後は彼女の神託を忠実にかなえる執政として陰から支え続けていた。近年こそその結びつきは弱まっていたが、それでも姉弟がこのクニの双璧であることは変わりなかった。そして彼はいつでも義に篤く、悉く人心を掴む主導者だった。
「おとうさまがどうして……」
「お前が館を飛び出したと菜於が知らせたのだ。あの娘は忠実ないい従婢だな、お前につけて正解だった」
そう言って采迦は台与に歩み寄り、赤黒く薄汚れた台与の頬を親指の硬い皮膚で拭った。
「日巫女の所へ行っていたのだね」
台与はハッと顔を上げた。だが彼女の口を制するように采迦は続けた。
「日巫女は死んだ。『病死』だ」
(病死……?)
台与は口を開いたが、その声が出る前にまた采迦が話し始めた。
その目は台与の目だけをじっと見つめて、何かを伝えようとしていた。
「どうして知っているのかという顔をしているな。湯把どのが来て話していかれた。彼はのちに広場に人々を集め、女王の最後の託宣を述べるそうだ」
(――湯把!)
台与の頭の中が目まぐるしく動き始めた。
湯把が最後の託宣など聞き得るはずがない。だが彼は日巫女の死を知っていた、そしてそれを待っていた――だとすれば彼の託宣の内容は。
“私はこのクニを導くものとして誕生するだろう……”
(こういうことだったんだ! 日巫女を病死に仕立て上げて、死の間際の聖なる託宣をもって自ら男王として立つつもりなんだ!)
「ちがうわ、日巫女は病死では……」
「台与!」
激しく名を呼ばれ、台与は父親を見上げた。彼は揺るがない目でじっと娘を見下ろしていた。
しばらくわけが分からずに困惑して父親の目を見つめ返していた台与は、その瞳の深い焦りに気が付いて息を呑んだ。
(おとうさまは湯把から日巫女が殺されたことを聞いたの? そしてその場にわたしがいたことも……。巫女でありながらそんなケガレに触れたと知れれば、わたしは後継者の立場を追われて女王殺しの疑惑で裁かれる。――そうだ、湯把はおとうさまに釘を差したんだ。日巫女を病死ということにして娘を見逃す代わりに、自分の託宣に従えと……!)
自分がとんでもない事態を巻き起こそうとしていることを知り、蒼白になって目を伏せた台与に、采迦は囁くように尋ねた。
「台与、お前は……夢を見て、日巫女の館へ向かったのだね?」
「はい……そうです」
うつろに答えた台与の耳に、その言葉は、『日巫女を殺したのはお前ではないのだな』、と……そう聞こえた。




