35.敵国の王子
台与はよろめいた。その名を聞いて蘇った悪夢。
そうだ、まちがいなく夢で男が名乗った名は「クナヒコ」――何故気付かなかったのか。
国の名前を戴いたヒコ、それはまごうところなく、その国の王子の名。
「あなたは、邪馬台の敵国、狗奴国の王子なの……?」
口にしてから台与は気付いた。ヒコミコとは確か狗奴国の王の名で、彼は今何かおかしなことを言ったと。
「彦覡が死んだって……そんなはずない。誰も知らないもの」
台与の元にだけ情報が届いていないのだろうか、そう思ったが未だに戦が終わらないのはどういうことか解らなかった。頭領が死ねばその国は混乱し、戦どころではなくなるのが普通ではないのか。
マナシは一つため息をもらす。
「当然だ……真実を知っているのは親族と一部の官だけだ。本来ならすぐにでも彦覡を継いで王位に立つべきだと言われたが、俺はどうしても復讐を果たしたかった。だから彦覡の死を隠し、今は身代わりを立ててある」
台与の頭に徐々に現実味が舞い戻ってきた。その告白の重さが、すきあらば泳ぎ出ようとする意識をとどめおいているようだ。
目の前の若者が敵国の王子で、自分の聞いてしまったものが邪馬台国と狗奴国の行く末を左右するとんでもない情報だということも、逆に今は台与の心を鎮める重石になった。
冷たい風が、枯れた野原の中を迷って鳴いた。
「……今なら間に合う……すぐに帰って、マナシ、自分のクニへ」
台与は身を乗り出して言っていた。
太陽が満ちれば満ちるほど、あふれる光で彼の異質は見顕される可能性が高くなる。混乱の余韻が残る今ならまだ抜け出せるかもしれない、だが日巫女殺害が知れ渡ってしまえば、逃亡者の監視は徹底し生還することは容易ではなくなる。
「帰って王になったら、この国との戦はもうやめて……そうして穏やかに暮らそう? わたしはこの国で、あなたはあの国で。今日のことも全部忘れるから。だから早く行って――」
台与はマナシの身体を両腕で押し返す仕草をしたが、逆にその手は掴み返されて身動きができなくなった。驚いた台与の目を貫くような眼差しで見て、彼は言った。
「いいや、まだ帰れない。仲間と約束したんだ、もう一つ、やらなければならないことがある」
「それは……なに」
目を逸らすこともできず、瞬きさえもできないまま台与が問うと、マナシは手首を握る手に力を込めた。
「後継者だ。女王の後継の巫女を殺す」
しんと、心のさざ波が凪いだ。静かに静かに潮が引くように静謐が訪れた。
「このクニには後継者として育てられている巫女姫がいる。やっとその居場所を掴んだ」
台与はとっさに叫んだ。「総羽さんは違う、彼女は後継者じゃない!」
マナシに総羽が殺される、それだけは何よりも耐えられないことだ。考えるだけでもおぞましく、全身を走った悪寒がいつまでたってもひかなかった。それだけは、何に代えても阻止しなければならない。
「いや、確かなことだ。総羽という巫女は霊力を持ち、おまけに自分で女王になると放言しているんだろう」
「違う、あの人は絶対に殺してはいけない!」
「……お前、東の婢だろう。あいつにこき使われてそれでなぜその女をかばう」
マナシの眉間に不審がつのるのを目にして、台与は唇を噛んだ。これ以上理由もなく捲し立てると余計に怪しまれる。
「総羽さんはいい人だもの、それに」
ふいに啓示を感じ取った台与は、するりとそれを口にした。
「後継者は別にいるわ、西の館に住む巫女姫がそうよ」
日巫女と湯把、どちらの手に落ちるのもいやだった。
かといって、自ら命を絶つことはしたくなかった。
けれどももう、希望が見えないとしたら。光の射す途がないのなら。
マナシの手に掛かって死ねたら。ふしぎと自然に、そう思った。
(この気持ちを、なんというんだろう)
「西の巫女姫……?」
「そうよ、その子が邪馬台国の女王になるもの、殺すべきは……その子よ」
台与の口から思いもかけない禍つ言が出たからか、マナシは目を見開いた。
「どうしてそんな言い方をするんだ。そいつに何か恨みでもあるのか」
「恨み?」
反芻してみて、台与は小さく笑った。笑い出すとふしぎと止まらなかった。
(そうか、こんなに簡単に楽になれる途があったんだ。それに彼の望みも叶う)
「恨みなんてないの、ただその子は王位についてはいけない禍つ姫なだけ」
マナシは首を傾げた。笑い始めた台与の様子に奇異を感じている様子だった。
笑いを収めた台与は、唇は微笑みの形のまま言った。
「その子の名前は台与。日巫女の葬に必ず一人になるわ」
「台与……?」
台与はマナシの手を振り払い、きびすを返した。西の方向へ駆け去る台与に向かってマナシは叫ぶ。
「待てよ、まだ……おい、聞いてるか! その日――全てが終わったら、またここに来るから、お前も来てくれ。まだ聞きたいことがあるんだ。待ってる!」
台与は振り返って微笑み、大きく手を振った。
(さよなら、マナシ)
前を向いたけれど――もう涙で何も見えなかった。




