33.激情
台与は大きく息を吸った。一気にふくれあがった恐怖が喉元から突き上げてきて、本能のまま大声で叫び出す、その寸前にマナシが息もできないほど強く台与の口を両手で塞いだ。
跳ね上がった女の抜け殻から飛び散った飛沫、それが帳に散り、じわじわと浸透して台与の頬を濡らしていた。
男は、自分の主であるはずの、あるいは恋人であるはずの女を、手にした剣で貫いたのだ――。
「……っ」
台与の恐慌は闇を震わせた。
男ははっとして顔を上げ、帳のある場所にじっと視線を据えた。闇に慣れたマナシの目には、男の焦点が間違いなく自分達を捉えたように見えた。
刹那、考える間もなく彼は台与の首筋に手を伸ばしていた。手刀で台与を気絶させ、自分が一人で男の前に出ていく覚悟を決めていた。
だが、男はまたもとのように視線を崩れた女に戻し、ふっと笑った。
「まったく、あなたというひとは」
そうして、剣を手にしたまま男はゆっくりと扉に向かい、音もなくそれを開いた。神殿にふたたび射した紅い光の柱は紗の帳までまっすぐに続いていた。振り返った男は笑んでいた。
「あなたも早く行かれた方がよい。やがて再び日は満ち、そしてそのとき、わたしはこの国を導くものとして誕生するだろう。邪魔をしようなどとは考えないで下さい、あなたのためにも……」
台与がすぐには言葉の意味を把握できずに戸惑った、その一瞬。
すべてを覆い尽くす激烈な感情が台与の体中を駆け巡った。伏せていたはずの眼は男の笑みを捉え、涙に濡れていた黒い瞳は燃える炎の如く紅く輝きを増す。
『――ユルサナイ――湯把!』
(なに!? これ!)
突然発露した自分のものとは思えないほど烈しい感情に台与がおののいたとき、扉は静かに閉じられた。
訪れる静寂、沈黙……そして澱みすらない漆黒の闇。
あとに残された二人は、しばらくは身動きすらできなかった。
固まった身体を融かすように、ただじっと互いの体温に身を預けているしかなかった。
どのくらいそうしていたのか。
「……行こう」
マナシは不意に体を起こし、台与の手を握って立ち上がらせた。肯定も否定もなく台与はされるがままに立ち上がり、先をゆくマナシのあとに続く。床がぬるぬると滑って何度もふらつき、そのたびに彼の腕に掴まった。
「……どこへ?」
訊ねた台与に、マナシは振り返りもせずに答える。
「どこでもいい。とにかく、ここを出る――再び日が満ちる前に!」
その言葉を合図に二人は駆けだした。台与に走ろうという意志があったわけではないが、とにかくこの場所にはいたくなかったし、何よりマナシと離れることは考えられなかった。
しっかりとその腕を掴んだまま、台与は口の中で囁いた。
『ごめんね』――ただ、それだけを。
ひたすら、暗闇の中を走った。
夢で感じた殺意、そのかたちが台与の心の中でゆっくりと靄を払って現れてきていた。
(あの男は湯把だった)
なぜだか、そう思った。それ以外の可能性は考えられないほどの確信だった。まるでそう、自分はあの男をよく知っているかのように。
そしてまたあの男も、台与を見て言ったのだ……『あなたも行った方がいい』と。
(殺されるかもしれない、わたしは湯把に)
湯把がこの国を導く者として台頭するつもりであるなら、日巫女の魂を受け継いだ台与は、いつ牙を剥くともしれない脅威の存在となる。彼は間違いなく台与の命を狙うはずだった。
(わかる、心の奥底で彼女が叫んでる。溢れてくる……この怒り)
唇を噛んで、台与は感情の波をやり過ごした。途轍もない怒りの波が台与の意識の全てを覆った瞬間が確かにあった。自我を彼女に飲み込まれたということ、それは自分を失ったということだ。
(怖い……! あのまま戻れなかったら、わたしはわたしじゃなくなってた)
こんなに突然に訪れるものであったということが、台与にとっては信じられないほどの衝撃だった。台与の精神が弱り切っているとき、そして日巫女の精神が大きく揺さぶられたとき。この二つが重なったときに、二人の居場所は入れ替わる。
殺されたくない、そう願えば日巫女の思うつぼだった。日巫女の力があれば湯把の企みなど易々とうち破ることができるだろう、だが日巫女に身体を奪われること、それはもう死んだも同義なのだ。
どちらに向いても――光の射す場所は、ない。
(いやだ!)
日巫女の館を飛び出した二人の目に映ったのは――いや、正確には何も目に映らなかったのだが――光の破片さえも残さないほど完全に太陽を喰らい尽くした闇の姿だった。
膨れあがった闇は、夜よりも深く何もかもを飲み込んでいた。
「太陽は、どうなってしまったの」
耳に突き刺さる人々の叫び声を振り払うように、台与は腕を伝って存在を確かめながらマナシに尋ねた。
「あの男も言っていたように、すぐに満ちるんだ。その前に人の目の届かないところまで行く」
「人の目の……?」
もう息も絶え絶えで、台与は言葉を反芻することもできなかった。歩調はまるで雲の上を歩くようにふわふわとうわついて心許なく、足と足が絡まって転ばないように気を配るのが精一杯。ひとときも安らぐことのない思考の渦のなかで、台与は自分なりに理解した。
(ああそうか……今のわたしたちの格好、きっと酷いんだ)
泥の汚れや衣服の破れだけではない、倦むような死臭と凝固した血液の黒い染みが身体中にまとわりつく自分達は、誰が見ても穢れの象徴に違いない。そして女王が殺されたことが露見すれば、一番に捕らえられるだろう。
(とにかく、今は逃げるんだ……)
大門への階を駆け下り、開け放たれた門から聖域を飛び出し、身体中にぶつかるのが人か物かもわからないような状態の中を、ただ掴んだ腕の温度だけを頼りに駆け抜ける。
ちらりと視界をよぎったものに見覚えがあったような気がしたが、もう振り返ることはできなかった。




