32.帳の中で
“時は満ちた――総力を挙げ、狗奴国を殲滅せよ”
どこまでも。
どこまでも、流されてゆく。
光の届かぬ黄泉までも、根の堅洲国までも。
この身が果てるまで。
それでも、あなたがいるのなら。
どこまでも、流されて構わない――そう、思った。
光の破片すらなかった。そこはまさに暗闇だった。
だが、彼はぼんやりと白く光って台与の目に映っていた。
魂の最後の輝きが、彼の身体から余韻として溢れ出ているようだった。
「マ……ナシ」
台与は彼が魂離るのを恐れ、もつれる足で彼の元へ駆けだした。床がもう何も感じないくらいに冷たいせいで、血で濡れてもそれに気付かなかった。
手を伸ばすと、マナシはゆっくりと倒れ込んできた。
「マナシ」
彼を支え止めるだけの力は、もう台与にもなかった。もつれて崩れ落ちるように血の海の中へへたり込んだ二人は、互いの身体で自分を支える格好でただ呆然と視線をただよわせていた。視界の端に何度も女の骸がよぎったが、もう見ようとも思わなかった。
「しっかり、して」
励ますはずの言葉も思った以上に萎えきっていて、聞こえなかったかもしれない。
何より、これから二人どうすればいいのか台与には考えも及ばなかった。殺されたのはこの国の女王なのだ。そして殺したのは――
(止められなかった……わたし)
どうしても止めなくてはいけなかったのに、それができなかった。
絶望の淵で台与は日巫女の言葉を聞いた。
“まさか、かの者と逢うとはな……”
(かの者……それは、マナシのことだったの?)
麻痺した頭でぼんやりと考える。日巫女は自分を殺す相手のことも知っていたのだ……そして台与が彼に惹かれてしまうということも、解っていたのだろうか――?
「……どうして、お前が来たんだ?」
マナシはやっとの事で身動きして、台与の肩に預けていた頭を上げた。顔には血の気のかけらもなく、喋りさえしなければその返り血で死人そのものだった。
「どうして、って……」
夢を見て、わかってしまったから。あなたが、日巫女を殺すということを。
それを止めたかった……
何も答えない台与に、マナシは独り言のように呟いた。
「俺は、何も言わなかった」
「そう……何も言ってくれなかった。でもわたしは……」
初めて体の中を血が流れ始めたと思った。そうして、台与の目から熱い涙がこぼれ落ちた。
「わたしは……会いたかった」
台与の涙をじっと見ていたマナシの目に、徐々に生気が戻ってきていた。
彼はそっと指で台与の涙を拭うと、まだ危うげな表情で首を傾げた。壊れ物を手にして恐縮するような顔だった。
「なぜお前が泣くんだ。なぜ俺のために、涙なんか流す……?」
台与には何も答えることができなかった。
(だって……だって)
日巫女はまだ生きているの、わたしの中で――
伝えられるはずなどなかった。もうこれ以上、彼を苦しめるわけにはいかない。
(決着をつけるのは、わたしだ……)
そうして台与は背負った業の重さを悟った。マナシが何も言わずにここまで来て、日巫女を一人で討ち果たしたのも、その大きな業の仕業だ。彼は誰の力も借りず、自分自身で決着をつけたのだ。
「泣くな……」
マナシは、白珠のように次々とこぼれ落ちる雫を受け止めようと台与の頬に手をあてて、透き通る少女の瞳を覗き込んだ。夏の夜に見たときにはただの幼さしか感じなかったはずの面差しが、今はひどく儚げで、触れるだけで舞い散る花を思わせる。
ふいにマナシはその瞳を自分に向けたいと思った。何の根拠もないのになぜか、忘れていた何かを思い出せるような気がしたからだ。
だがマナシが声をかけるよりも早く、台与は血で濡れたマナシの胸元に顔を埋めた。
「もう、戻れない……」
出会った場所が果てだった。戻れる場所など考えられなかった。
「もう戻れないよ……」
マナシは戸惑いながらも泣き続ける小さな台与の背中に腕を伸ばした。
指先が触れる。そこで二人の身体は凍り付いた。
微かな気配。そよぐような衣擦れの音。
「――誰か、来る」
二人は水松のような身体を支え合って立ち上がり、身を隠す場所を探した。だがただでさえこの暗闇、何一つそれらしいものは目に入らず、焦った台与はどうにかして扉を塞ごうと入り口の方へきびすを返した。
「ばか! 間に合わない――」
マナシが台与の手首を掴んで紗の帳の中へ引きずり込むのと、扉が音を立てて開くのは同時だった。
紗の柔らかな感触が台与の頬を撫でた。引き倒されるようにしてマナシの上に倒れ込んだ台与は、どうかすると転がり出そうな悲鳴を押しとどめようと必死で唇を噛んだ。緊張と恐怖で呼吸にも声が混じりそうだったので、しばらくは息をすることもできなかった。
ここにもし手燭のひとつでもあれば、透き通る紗の帳など何の目隠しにもならないだろう。だがすべてが閉ざされたこの闇の中で、二人の存在を照らしだすものがあるとすれば、それは二人自身が発する気配だけだった。
すべての望みは、この一瞬にかかっていた。
(お願い、お願い、気付かないで……!)
神殿の中にゆっくりと入ってきた人影は、この非常時にもかかわらずひどく落ち着いた動作で扉の方を振り返り、丁寧にそれを押し閉ざした。
誰かが廊に燭をつけたのだろうか、閉ざす直前に細くなった微かな外光にその面差しがかいま見えた。
「……!」
台与は大きく背を逸らした。危うくあっと声を上げそうになり、すんでの所で息を呑んだ。
刹那かすかに光を受けたその貌に見覚えがあった。以前もここで見たのだ、その男を――
(あの人だ……この場所で日巫女と……)
自分が今まさにいる場所で、男は日の巫女とまぐわっていた。
それを認識した瞬間、台与の全身を譬えようもない悪寒が走り抜けた。今すぐにでもこの場所を飛び出したい衝動を抑え、台与は両手で口元を押さえてマナシの胸に突っ伏した。もうこれ以上の恐怖は耐えられなかった。マナシは全神経を入ってきた気配に向けながら、それでも台与のこわばった身体を抱く腕に力を込めてそれに答える。
闇の中を、男が近づいてくる気配がする。そして衣擦れがぴたりと止む。
男がよばう。
「……日巫女」
それはまるで妹を呼ぶ背のような。
「……日巫女さま……」
それはまるで女王を呼ぶ臣下のような。
倒れた女を目の前にして、男は二度その名を口にした。そしてその生死を手ずから確かめることもなく、ただ立ち尽くしていた。
そうしてどれくらい待っただろうか。微かに漏れ出ずる声に、二人は息を呑んだ。
最初は泣いているのだと思った。だが、俯いていた顔を天井に向けた男は明らかに笑っていた。女王の死体を目の前にして。
「身罷られたのですか。本当に? 予言にたがうところなく……?」
倒れた女はぴくりとも動かない。その様子を見て、男はますます高らかに笑う。
「本当にあなたは素晴らしい。自らの死を知りながら、それを防ぐことすら不可能な絶対予知。まさにあなたは神の申し子だった」
台与は身体の震えを止めることができなかった。マナシは抱きかかえるようにして台与の動揺を抑えようとしたが、その彼の手も微かに震えていた。一体何が起こっているのか、男が何を言っているのか――予想の範疇を大きく越えた展開に、二人は理解を伴わせることができない。
笑い声は闇に融け、次に聞こえたのはごとりという重たげな音だった。
二人の脳裏に閃いたのは血の海に忘れた剣。
「ただの青銅の剣、こんなものであなたが殺せるのか。むろん、それはあなたが『視た』世界でなければ無理なことだが……。日は欠けた。闇の中でゆっくりとお休み下さい、わが巫女。あとはわたしが全て承りましょう」
そして次の瞬間、台与の目の前の紗に黒い染みが散った。




