31.狗奴国 弐
「小魚さま、刀麻さまはお帰りでしたか」
出てきた少女を待ちかまえる形で女が歩み寄る。少女は憮然とした顔で頷いた。
「ええ。帰ってきていたわ。でもお兄様はいなかった」
「そうですか……」
女は微かにため息をもらし、落胆を隠せない少女の顔をのぞき込んだ。
「小魚さま、大丈夫ですよ。王子ならきっとすぐ帰っておいでです」
「でも、珂良」
少女は心配を目に滲ませて従者の女にしがみついた。
「刀麻ったら、お兄様に人殺しをさせるのよ。それも女王だけじゃなくて跡継ぎまで!」
「まあ……」
「あのクニは霊力を持った女王だから栄えたのよ。きっと後継者も女の子よ」
自分に言い聞かせるように、少女は呟く。
「わたしとそうかわらないくらいの年頃の女の子だったりしたら? ううん、もっと小さかったりしたら? あんまりだわ、その子は何も悪いことをしていないのに。勝手に大人の始めた戦に巻き込まれて殺されるのよ。そしてその子を殺すお兄様だって、可哀想だわ。お兄様にそんなことできるはずない……」
だって優しいのよ、誰よりも。そう言って少女は口を閉ざした。
女は少女の肩を抱き、陽の光の当たる場所へといざなった。冷たかった少女の肌が、少しだけ温みを取り戻す。
「戦は男のものだからわたくしたちは何も口を挟むことはできません。クニが死ぬか生きるかの境目では、きっと情けは一番の敵なのでしょう。王子は必ず帰ってこられますよ、あの方はちゃんと自分の立場をわきまえておいでです」
「わたし、今までのようにお兄様を迎えることができるかしら……」
人の血を、小さな少女の血を浴びた彼の姿を想像するだけで、身体に痺れが走るようだった。
身震いする少女に、美しい従婢は囁く。
「あら、今まで通りでなくてもよろしいのですよ。お二人は兄妹から妹背になられるのですから。王子は王へ、小魚さまは妃へ」
女の言葉に、少女は一瞬にして顔を真っ赤にして怒鳴った。
「な――もう! 突然何を言うの、珂良!」
少女が振り上げた拳をひらりとかわして、女は笑った。少女は悔しそうに唇を噛んでみせたが、堪えきれなくなったのかついには吹き出した。
「知っているわよ、あなただってお兄様が帰ってきたら晴れて菊池彦と祝言だものね?」
「まあ……どこで、それを」
今度は女が絶句する番だった。白い肌に薄く赤みが差した面差しは、従婢とは思えぬ麗しさだった。クニ随一の美女と称えられるだけのことはある。
「狗奴国第一官、菊池彦の妻。ふふ、いい響きね」
「小魚さまったら、もう!」
若い娘たちの笑い声は、風に乗ってさわやかに響いていった。
狗奴国と邪馬台の決戦の火蓋が切って落とされる、数月前のことである。




