30.狗奴国 壱
山を越えてこの国へ戻るときに見える景色が好きになった。
一面の緑の森と、その向こうに微かに見える碧い海原。土臭い邪馬台国とは違う世界。
「あのクニはダメだ、潮の匂いがしない。まったくよくもあんな場所で我慢が出来るものだ」
彼がそう言うと、差し向かっていた男は心地よさげに笑う。
「いつも容赦がないな、刀麻。それで我らが狗奴彦は」
「すまない、押し切られた……この手で果たすまでは帰れないと」
彼が困ったように頭を掻く様子は、その巨漢に似合わずどこか滑稽で笑みを誘う。苦笑した男は笑いに紛れてため息を一つ落とした。
「そうか、そんな気はしていたよ。一度言い出すときかないな、あのわがまま王子は」
くつくつと笑いながら男がこぼしたつぶやきに、もっと小さなつぶやきを返す彼。
「……王子、か」
「……ああ、そうか、違うな……帰ってきたら王子ではなくなる」
「だから帰ってきたくないんだろうよ。あいつは奔放な奴だから、縛られるのを嫌う」
そうして二人はまた小さな忍び笑いを漏らした。
「そうだな、だが私はあいつを信じているよ。憎んでいたと言っても過言ではないような相手の仇をとるために単身敵地へ乗り込むなど、並の神経でできることではないだろう。そして狗奴彦なら、必ず成し遂げて帰ってくるはずだ。そのときこそ……すべての覇権を彼が手に入れるとき」
しばし、二人の目は強い酒に酔いしれたように熱を持った。
「そのためには私は何でもしよう。菊池彦の名にかけて、このクニを守ってみせようぞ」
「もちろんだ。微力ながら力を貸すぞ、菊池彦。俺もあいつはやると信じている。だから、一つ言付けてきた」
『後継者を殺せと』
「刀麻! 今の話……」
突然部屋の帳が舞い上がり、一陣の風のように清々しい声が飛び込んでくる。男達は驚いて口を閉ざした。
風は、少女の姿をしていた。
「小魚姫」
「お兄様は帰ってきていないの? 連れて帰るといったじゃないの、どうしてそんなに危ないことをさせるの」
矢継ぎ早に質問を浴びせかける少女に、彼は閉口して向かいの男を見た。
男は穏やかに微笑んで、少女の背を押し返す。
「小魚姫、今は大事な話の途中です。詳しいお話はあとでお伝えしますから、今はどうぞ神殿にお戻り下さい」
「菊池彦! わたしはあなたを信じているわ、だからすべてを任せているのよ。けれどお兄様に何かあったら、わたしあなたを許さないわ」
紅潮した頬で負けじと踏ん張る少女の髪を撫で、男は誠意を込めて頷いた。
「もちろんです、わたしの命は彼と共にある。彼のいないクニで生きる価値もない」
それを聞いた少女は複雑な心境を込めて眉を歪めたが、やがて諦めたように一つ小さく頷いて部屋を出ていった。




