29.黄泉での邂逅
“大陸が好きだ、何もかもが眼炎くクニだ……”
彼の声だけが何度も何度も台与の中に響いていた。喜びに満ちた弾む声、愁いを含んだ静かな声。そのどれもが、自分でも驚くほど鮮明に思い出せた。
どんどん深くなる闇の中で、その響きだけが台与を導く唯一のもの。
(知っていたの、マナシ……このことを!)
考えると涙が滲んだ。それほど恐ろしいことが、多くの一致を経て台与の中で明らかになりつつある。
もし、この太陽の翳りを彼が張政から聞いていたとしたら。
もし、彼の使命が総羽の館から近しいものなのだとしたら。
台与の夢見は、彼女が最も恐れた事実をまざまざと示したのだ――日巫女の力をもって!
(マナシなの……!? あなたなの? そうなの!?)
林を迂回する余裕もなく、台与は暗闇に呑まれた木々の間を何度もよろめきながら駆けた。
この闇の林はあの夜を連想させる。あのとき躊躇も見せずに駆け去ったマナシ、それを追った掖邪狗。間違いなくそれはこれからの二人の構図であり、そしてその中で泣き叫ぶ自分は――
「!」
木の根に足を取られた。落ち葉が舞い、埋もれるような格好で台与は打ち伏す。
(どうして!)
どうしてこんなことを知ってしまうのか。何も得ず、誰とも出会わず、ただ静かに過ごせれば良かったのに。
どうしてこんな風に心を締めつけられるのか、走らなければいけないのか、どこへ向かおうというのか。
そして彼は、どうして何も言ってくれなかったのか――。
もう起き上がる力もなく、台与は顔を伏せたまま泣き続けた。自問に答える言葉など浮かんでこなかった。
けれど、彼の声だけが。
“じゃあ、もういいだろ。無茶するちびだな……”
「――…っ」
この場所で、泣きわめく自分を最初に見出してくれたのは。
「よくない……よくないよ、無茶だっていいもん……」
台与は涙と泥にまみれた顔を拭って立ち上がり、再び駆けだした。髷も崩れ真新しい衣も破れ、散々な有様だったが、台与の心にある一つの決意が闇の道を照らし始めていた。
(あなたを守りたい、あなたの近くにいたいの。どんなことになっても――)
それがわたしにできる、唯一のことだから。
ふらふらになりながらもなんとか林を抜けた台与を、東の集落の喧噪が打った。
人々はほとんど闇に呑まれた太陽を仰いでは地に伏し、世界の終焉を嘆きながらも奇跡の復活を願って叫び続けている。その鼓膜の破れそうな悲鳴のただ中を、台与は無我夢中で走り、人々が押し寄せる総羽の館の前を通りすぎた。
「台与!」
突然肩を掴まれ、台与は仰天して振り返った。そこには頭からすっぽりと襲を被った女が立っていた。
「私よ、台与! あんた一体どうやってここまで来たの、まさか走って?」
「あ……総羽さん! わたし……わたし」
その声を聞き、台与は女の腕にすがりついた。救いを求めて館に殺到する人々の目をかいくぐり、総羽は台与の前にいた。震える台与を抱きしめて支え、総羽は訊ねた。
「日が欠けていく。今朝私の占が不吉を兆したわ。何か知っているの、台与」
台与は大きく首を振り、逆に噛みつくような勢いで訊ね返した。
「マナシ、マナシは? マナシはどこっ、総羽さん!」
総羽はぎょっとしたような瞠目で台与を見返して、肩を抱いていた手を離した。
「今朝から見ていないわ……」
台与は弾かれたように総羽から飛び離れ、自ら人々の群の中に消えた。総羽は追おうとしたが、恐慌状態の人々を掻き分けたときには台与の姿は消えていた。
日巫女の館へ続く大門の前にも人々が打ち伏していた。ここはひときわ喧噪と混乱が激しく、泣き叫ぶ声や怒声が入り交じっておかしくなりそうだった。
台与は小さな身体を丸めてその間をすり抜け、大門から次々と飛び出してくる婢たちに紛れ込んで聖域の境を越えた。
分別をなくした人々の中では、聖域に忍び込むことすら児戯に等しい。彼はそれを知っていたのだ。
長い石の階を何度も躓きつつ駆け上がりながら、台与は息が詰まる感覚に気付いた。身体が拒否反応を示し始めている。この場所はあまりにも因縁が深すぎて、台与の魂と最も相性の悪い領域だった。できることならばもう二度と踏みこみたくはなかったが、今は嫌がっている場合ではない。
(マナシ……!)
気力を振り絞り、台与は大御館へと走った。あちこちで狂乱状態の巫女達にぶつかったが、誰も台与に目を止めるものはなかった。それを考えると、あの状態で台与を見つけだした総羽こそ、何事にも動じない真の巫女と言えるだろう。
彼女こそこのクニを導くにふさわしいと、台与は頭のどこかで考えていた。
誰もいない静かな暗闇の中、それでもできるだけ足音を立てないように廊を駆け、分岐で立ち止まっては勘を信じてまた走る。それを幾度繰り返しただろう。
ふらふらになって壁に手を突いた台与は、壁から突き上げる冷気に身を竦ませた。
(ここだ……この霊気、わかる)
体も心も雁字搦めにされるような圧倒的なちから。それは日巫女自身が霊力を失ってもなお、余韻としてその場にただよっていた。
(マナシ、お願い)
台与はゆっくりと正面にまわり、その小さな扉の前に立った。自分の心臓の鼓動で、何もかもが押し潰されてしまいそうだった。
ゆっくりと手を伸ばす。あの謁見のときのすべてが、眼裏に烈しくまたたいた。
今にも凍り付きそうな手をもう片方の手で支えて、静かに扉を押す。
(早まらないで……その人を殺しても)
『わたし』は生きている――!
そして、台与は見た。
鮮烈な朱、飛び散る朱、流れる朱、広がる朱、朱の海、朱の世界を。
それは夢、そしてうつつ。
その中に、まるで神託を下された巫覡のように佇む男。
その足元に倒れる女。女から広がる、朱の海。
(黄泉国だ――)
死者の国、光の射さぬ闇の国。死臭と腐臭のただよう、穢れの国。
光の源は絶たれたのだ、日神の妻を殺した一人の人間によって。
「マナシ」
小さく呼んだ、その声は静寂にかき消える。
背を向けた男は振り返りもしなかった。何一つ動かない静止の世界だった。
(魂離り……してしまいそう……)
襲い来る眩暈に耐え、台与はよろめきそうになる足に力を込めた。
頭の中が真っ白になり、もう何も考えられなかった。深く濃く、沈黙だけがその場を支配する。
ぽとり、男が手にした剣から、朱点が落ちる。
無意識に台与は、掠れた声で呟いていた。
夢の中の、男の名を。
「……狗奴彦……」
男は、剣を持った手を大きく震わせて、その剣を朱の海に取り落とした。
徐々に振り向くその顔は、闇の中で白く浮き上がって見えるほどに蒼い。うつろな目は台与のまなざしと触れあい、それでも互いに言葉を発することはなかった。
血の臭いに満ちたそこで、どれくらい立ち尽くしていただろうか。
「また……お前か、まったく、変なところで……よく会うな」
男が微かに震わせた唇からこぼれた言葉を聞いたとき、台与は駆けだしていた。
同じ業を背負う二人が邂逅し、激流のさだめの中へ身を投じる瞬間だった。
第四章 真男志 終




