28.蝕まれる太陽
総羽が帰ったあと、褥に横になっても台与は寝付けなかった。
思いがけずマナシの居場所を知ったことと、彼が自分を助けて総羽の元に潜り込んだという事実が気になって仕方がなかった。
(どういうこと。マナシが総羽さんの館を選んだのは、彼の目的に近いからなの? そのためのきっかけを得るために、倒れているわたしを……ううん、正装の巫女を助けたの? それともただ、張政さんが去ったあとの自分の居場所を確保するため?)
何度考えても分からない、そして心のどこかが分かりたくないと言っていた。
知ってしまえば取り返しのつかないことになる、そんな漠然とした不安が、理由もなく台与に迫っていた。
(会いたい、もう一度、彼に……)
今度こそちゃんと互いのことを話して、偽りのない心で向き合いたい。
けれどもうそれは叶うようなことではなかった。掖邪狗の涙を見た瞬間に、自分が巫女としてどれほど罪深いことをしてしまったか思い知ったのだから。掖邪狗の信頼を裏切ることはもうできない。
(会いたいのに……会えない……)
そうしてその曖昧な不安を抱えたまま、台与はやがて眠りについた。
――来る。
来るわ。あれが。
『わたし』を、殺すために――
(え?)
あたりは闇に包まれていた。
下を見ても上を見ても、光のかけらさえ目には入ってこない。
気の遠くなるような漆黒。そこを、がむしゃらに駆ける自分。
伝わってくるのは、冷ややかな空気と、のめり込む泥沼の感触。
そして追ってくる殺意。
そうそれは確かな殺意。
(わたしを殺すために!?)
――『わたし』を殺すために――
正体のつかめない恐怖が、台与の足を徐々に凍らせる。
そしてその手がついに、台与の肩を掴んだ。
振り向いたその瞬間、暗闇に燃えるような光が射す。台与は目をかばい、嵐のようなそれがおさまるのを待った。
刹那の輝きの中にほんの瞬きずつ、見慣れない情景が流れていく。
それは未来の。
これから、起こること。
あまりの速さにほとんどを見て取ることができない。
けれど、たったひとつ大きく顕れたそれは。
鮮烈な朱。飛び散る朱、流れる朱、広がる朱、朱の海、朱の世界。
そしてそこに佇む人。
マナシ。
「 !? 」
気付くと、あたりは再び闇に包まれていた。そこに、気配だけが逍遥する。
近づいてくる『何か』、ゆっくりと振り向く『自分』。
“そなたを待っていたよ……”
虚空にうつろな声が響く。その声は紛れもない『自分』の声。
“ああ、やっとあんたの前に来た。長かったよ”
『何か』の声に、『自分』は笑う。
“逢いたかったよ……狗奴彦”
“ああ、俺も会いたかったよ――日巫女”
「ちが……っ」
台与は我にかえり、声を出そうと喉元に手を当ててもがいた。
(これは違う、わたしじゃない! わたしは日巫女じゃないわ!)
“これでやっと、全てが終わる。俺の使命も果たされるんだ”
そう言って『何か』が右手を突き出す。
「……えっ」
台与が見下ろした自分の胸には、光を放つ銀の刃が深々と突き刺さっていた。
そこからとくとくと流れ落ちる、黒いもの。
闇の中で輝く刃の光を浴びて、それは滑らかにこぼれ落ちる。
(血)
「やめて」
“全て……が、終わる……? っふふ、あっははは! 甘い……男、もう転生は果たされたというに――”
「いや」
“終わるので、は、ない、ここから始まるのよ……わらわの使命も、そなたの……使命も、のう……”
「やめてえ――――っ!」
台与は天井を見上げていた。額からこめかみを通って首筋へと流れ落ちる冷たい汗の感触がした。
身動きもできず、声も出ない。真冬だというのに、褥はじっとりと汗で湿っていた。
(夢……今のは全部夢だ……)
わななく唇を鎮めようと、台与は自分に言い聞かせた。けれど時間がたつにつれ、鼓動は異様なほどに鳴り響き、手足はがたがたと震え出す。恐れていたものがついに訪れたのだ。
(――「夢見」だ……)
もう、ごまかすことはできなかった。
全ての音が、心臓の鼓動に飲み込まれる。
(わたし……何を見た……!?)
台与は眩暈を抑えて飛び起きたものの、ふいに呼吸の方法を忘れてしまいひどくせき込んだ。何度も唾を飲むが、喉も口内もからからに渇いていたせいでへばりついて余計に息が出来ない。
「~~っ!」
「姫様っ、何事ですか!?」
数人の婢があわただしく部屋に飛び込んできた。菜於などは、両手で丸太を構えて台与の所に駆け寄ってくる。「ご無事ですか!? 賊はどこです!」
菜於が丸太をぶんぶん振り回しながら窓際まで駆け寄り、ついで部屋の隅々まで検察しているときに、他の婢が恐慌状態だった台与に水を飲ませた。そのおかげで台与はやっと落ち着き、取り乱している菜於に声をかけた。
「菜於、大丈夫……何でもないわ……誰も来てない」
「では何事です? あんな悲鳴を上げられて」
菜於は心底心配そうに主の顔をのぞき込んでいた。台与はかわらけの中の水を飲み干して、大きなため息をついた。叫んでいたのか――本当に。
「何でもないの本当に……ただの夢よ」
ただの夢のわけがない――
台与は頭を振って、空になった器を婢に押し返した。
「夢をご覧に……?」
菜於は怪訝な顔で首を傾げ、そして思い直したように微笑んだ。「怖い夢をご覧になられたんですね。大丈夫ですよ、姫様にはわたくしたちがついております。何も恐れることはありませんわ」
台与は頷くしかなかった。湿った褥の中で足が小刻みに震えていたが、辛うじて微笑むことはできそうだった。
「うん、ありがとう……そうだね」
「そうですわ、さあ、もうついでですからお目覚めになられませ」
菜於の言葉を合図に、婢達は一斉に朝の準備に取りかかった。行李から着替えを出す者、結髪の道具を用意する者、厨へ食事を取りに行く者。急に騒々しくなった空間に取り残された台与は、きょとんとして菜於に問いかけた。
「もう朝なの?」
「あら、もうとっくにお日様は昇っておりましてよ、お寝坊姫様?」
窓の外を見ると、太陽は中天に近い位置でまばゆい光を放っていた。もう真昼も近い時刻なのだ。
(全然寝た気がしないのに……)
あの夢のことを思い出そうとしても、目も眩む光と喧噪の中ではそれも薄れてしまい見えなくなる。神殿の中で一人になれば、また思い出せるだろう……そら寒い気分で台与が考えた、その時だった。
ふいに、光の中に小さな小さな闇が生じる。
「あら? 何だか急に曇ってまいりましたわね」
台与を窓際に座らせて長い髪を結っていた菜於が、空を見上げて呟いた。台与はつられて首を巡らそうとしたが、背後から伸びてきた菜於の両手に頬を掴まれ元に戻される。
「動かないで下さい。せっかく綺麗にお結いしているのですから」
「でも、菜於……何だか雨が降りそうなほど暗いわ」
今の今まで光に満ちあふれていたはずの部屋に、翳りが色濃い帳を下ろす。
やがてその翳りが光をどんどん喰い殺し、誰もがその異常に目を見張った。
――世界が闇に、閉ざされようとしている。
「姫様……! これは一体……!」
菜於が押し殺した声で悲鳴をあげ、他の婢たちも持っていたものを取り落として台与の元に駆け寄った。櫛をさし損ねた髷のまま窓から身を乗り出した台与は、漆黒に閉ざされゆく世界を見、そして先刻まで鮮やかな光を放っていた太陽を見上げた。
そして見たもの――それは、喰い殺されゆく姿をさらした、変わり果てた太陽の姿。
(太陽が……欠ける!?)
台与はふらふらと窓から後退り、恐慌に陥った婢たちを窘める術もなく立ちつくした。
その刹那、台与の意識は果てを見た。
――欠ける太陽――失われる光――閉ざす世界――終わり――命の終わり
闇と交錯するように眼裏にまたたくのは、朱の色。
そして、二つの夢が彼女の中で一つになった。
「ああっ、姫様! お待ちください、姫様、どこへ――」
菜於の叫びも耳には届かなかった。
台与は一人、世界の終わりをわめく人々の間をぬって走り出した。




