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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第四章 真男志
26/67

26.去りゆくもの、見守るもの

 何度転んだだろう。もう、立ち上がる気力もなかった。

 どれくらいの時間そこにいたのか、ただ暗い闇の中でぽつんと座り込んでいた台与は、草の上に自分の影が浮かび上がるのを見て顔を上げた。

 松明から放たれるまばゆいばかりの紅い炎の余韻を受けて、静かな表情の青年が目の前に立っている。

「……ヤヤコ」

 掖邪狗は何も言わず、ただじっと台与を見下ろしていた。手を差し伸べもせず、罵りもせず、そこにあるものをただ目に映す、それだけの行為を続ける。それは台与にとっていてもたってもいられない、拷問の時間だった。

「ヤヤコ……っ」

 台与は立ち上がり、掖邪狗の名前を呼んだ。それだけしか言えなかった。

 あれほどに心配してくれていた掖邪狗を、自分はこれ以上とはないほど最悪の形で裏切ったのだ。騙し欺き裏切り、反省したと言っては繰り返す目の前の娘を、今彼は一体どのような気持ちで見ているのだろうと思うと居たたまれなかった。

「……彼は悪くないの。悪いのはわたしだけなの、わたしが彼を呼びだしたの」

 それを聞いて初めて掖邪狗の瞳が揺らいだ。

「奴は誰です」

 地を這うように低く呟いた掖邪狗の声に、台与は堪えきれず嗚咽を漏らしながら言った。

「魏の使者の……張政さんの、お付きの人。わたしは張政さんに会いに行ったの。最後に会えるのは今日しかなかったから、どうしても、話したかったの。ごめんなさい……」

 掖邪狗は大きく息を吐いた。自分の震える手が一体どう動くのか、それをむしろ興味深げに眺めていた。

 目の前の少女を抱きしめるか、それともこの手で打つのか。だがそのどちらにも動かなかった。

 その気力すら、足元から崩れ落ちてなくなっていた。


 ここにきて掖邪狗は自分の愚かさを嫌というほどに思い知った。

 彼が台与の不在を知らされたのは、意外にも東の館からの急使だった。『泣きたくなければ、台与の動向に目を配るように』という総羽からの意味の解らない伝言に、掖邪狗は半信半疑で台与の館に向かい、婢を遣わしてその不在を知った。

 大ごとにしたくはないので彼一人が松明を持ち村中を探し回って、やっと見つけたとき、台与は見知らぬ男と一緒にいた――その一瞬、それでも確かに、絶望の彼方で自分は男を殺したいと思った。

 そして掖邪狗は知った。自分がいかに狡猾で、愚かな妄執を抱いているかを。

 娘の中にいるのは、いつも自分一人だった。それを知っていた。そして、これから先も自分以外の男が娘の中に入ることはないと知っていた。それは娘が巫女だから。だから、誓いを立てたのだ。

 誰にも奪われることがないならば、一番近くで、禁忌を犯さずに見守ろう、と。

(他の男が現れると知っていた場合、私は一体どうしたというんだ……!)

 娘を自分のものにする勇気などないくせに、独占欲だけが存在する、なんと愚かな男。

 私はそんなものに成り下がった。

「ふ……っ、……」

 掖邪狗は低く笑い出した。頬を伝うものがあった。

「ヤヤコ」

 台与は口元を両手で押さえ、嗚咽をかみ殺してから掖邪狗にしがみついた。

 今はもう謝ることしかできなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……泣かないで、ごめんなさい、ヤヤコ」

 涙が溢れて溢れて止まらない。やがて掖邪狗は持っていた松明を取り落とし、台与を力の限り抱きしめた。

 黒い帳が降りた闇の林に、すすり泣く声だけがいつまでも響いていた。



 台与に張政との経緯を聞いてから、掖邪狗は終始無言で台与を西の館まで送った。

 幸い掖邪狗についてきて台与の不在を確かめた婢だけしか今回のことは知らない。だがもしこのようなことが露見すれば、台与の巫女としての地位はひどく危うくなってしまうだろう。

 別れ際に、台与はまだ乾ききらない目をこすりながら言った。

「ヤヤコ、わたしもうこんなことしないから。絶対にもう、ヤヤコを悲しませるようなことはしない」

 掖邪狗は長い間黙っていたが、目を伏せたまま台与を見ようとはせずに呟いた。

「姫さまは大切な方です。この国にとっても、……私にとっても」

 それだけを言って掖邪狗は明けつつある闇の中へ、静かに紛れていった。


 掖邪狗はその足で自分が家族と共に住む館へ向かい、厩から自分の馬を引き出してきてそれに跨った。

(ここからなら歩いても小半刻はかからない。馬なら夜明けには着けるはずだ)

 手綱を握り、嘶く馬をたしなめて駆ける。張政が出立する前に――

 そうして賓の館へたどり着いたとき、そこにはもう十数人の一団が朝靄の中で集まり始めていた。みな武器の手入れをしたり、荷持ちの馬に飼い葉を与えたりと、にぎやかに出立の準備を進めていた。

 掖邪狗はその中に、白い絹の衣を纏い巾で髪を覆っている一人の男を見つけた。

 馬から下りた掖邪狗は、わき目もふらずその男の元へ歩み寄った。

「失礼、私は邪馬台国大人が一人、掖邪狗と申します。貴国の王には勿体ない厚遇を賜り、一言ご挨拶に参りました」

「ああ、これは……」

 張政は荷を括る手を止め微笑んで振り返り、掖邪狗を見て目を見開いた。

率善中郎将そつぜんちゅうろうしょう、掖邪狗殿?」

 それは掖邪狗が朝貢の使者として入魏したときに、魏の王から与えられた位だった(これは名のみの臨時職とはいえ国王の近衛長官という位で、魏の高級官僚と同様の地位を与えられていることになる)。だが魏の貴人に応接する役目は掖邪狗よりも年かさで経験のある大人の長、難升米なしめに任されていたため、掖邪狗は面識のないはずの張政が自分の位まで知っていたということに驚いた。

「其方、最若であり有力、噂聞く」

「……」

 どうやら誉められているらしい。多少の話しにくさを感じながら掖邪狗は小さく頭を下げ、おもむろに切り出した。

「あなたは、台与という方をご存じですね?」

 張政の目が幾分細められた。

「我知る。……そうか、其方……」

 そこで言葉を切り、彼は立ち上がった。自分の荷を供の者に任せたあと、喧噪を避けるように掖邪狗を目で促して館の裏手に場所を変え、そこで口を開いた。

「彼女は無事に帰りましたか。その様子では、怒っていらっしゃるようだ」

 掖邪狗は張政の口調ががらりと変わったことに内心驚きながらも、表面に出さぬよう努めて冷静に頷いた。

「ええ、あの方はやがてこの国を担う巫女姫です。軽率な行動はとらせないで頂きたかった。いくら魏の賓といえども、触れてはならない部分もあるのです。彼女に何を言ったのですか」

 臆面もなく自分に食ってかかる青年を見て、張政は意外にも小さく笑った。

「あなたは若い。まだ何も失ったことがないのですね。けれどその若さゆえに過ちを犯すこともある」

 掖邪狗は張政の云わんとする事が解らず、若干気分を害して黙り込んだ。若さでいえば張政も三十を越すか越さないかくらいの年齢であるのに、その言葉は老成していて妙な威圧感があり、口を挟むことができなかった。

「彼女が大切なら、雁字搦がんじがらめに縛めてとどめおこうとしてはいけない。後悔したくないのなら、彼女がどんな道を選ぼうと、それを信じて常にそばで支えることだ。あなたが誰よりも彼女を愛おしんでいるのが解るからこそ、私はあなたに過ちを犯して欲しくない。あなたは『見守る者』……さすれば、失う前に気付くことができる」

 張政は淡々と語り、最後に両手を胸で組んで素早くその場を立ち去った。


 彼が去ったあとも、掖邪狗はその場所に呆然と立ちつくしていた。

 風が吹いて、足元の草を揺らす。

(見守る者……? 失う前に気付く? 一体彼は何を云っているんだ)

 ただ分かったのは、もう一人同じことを彼に言った者がいたということ。

“泣きたくないなら、台与を見守ることね”

(総羽姫と同じことを……なんなんだ、一体何を知っているというんだ)

 混乱した頭で掖邪狗は台与の面影を描いた。泣きながら抱きしめた愛しい少女。けれど今は彼女を信じようと思えば思うほどに、その存在が遠く思えて仕方がなかった。

(なぜ、何も言ってくれない? 姫……)

 空を仰いだ掖邪狗を飲み込む勢いで、草を舞いあげながら吹きすさぶ夏の嵐が通り過ぎていった。

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