24.張政との別れ
マナシに導かれるまま館を訪れその扉を開いた台与は、真正面の奥、小卓に肘をついて座る人影を見た。
その人はゆっくりと音もなく振り返り、穏やかに微笑むだろう。そう台与が予想した通り、張政は膨らみの少ない目元を和らげて台与を迎えた。単衣一枚をゆったりと羽織り、意外と長い髪は肩に垂れかかるところで緩く紐で留めてある。こうした姿を見ると倭の大人と全く見分けが付かないほどだ。
「いらっしゃい、お待ちしていましたよ」
「張政さん……」
台与はふらふらと部屋の中まで歩を進めてから立ち止まった。
話したいことは山ほどあったはずなのに、言葉が出てこない。
紅潮した頬で口を開けたまま突っ立っている台与に笑いかけながら、張政は入り口のところに佇んでいるマナシに向かって手を挙げた。
「すまないが」
「ああ、分かってる……外で待つよ」
静かに頷いて、マナシは扉を閉ざした。
すぐに張政は台与に向かって手招きし、呉坐に座らせた。小卓の上に乗っている器には少しだけ酒が残っていて、張政はそれを飲み干したあと口火を切った。
「お体の調子はいかがですか? 我の方から巫女姫を訪うわけにもいかず、ずっと気になっていましたが……」
台与は思わず笑ってしまった。どうやら村中をうろついて話を聞いて回っているというのは真実のようだ。
「はい、もう大丈夫です。館の者にはちょっと大げさに言ったせいでムラでは色々噂されてるかもしれないけど、本当はほとんど治ってるんですよ、ほら」
台与は笑いながら握り拳を作ってみせた。張政は微笑んで軽く頷き、細い目を伏せた。
「それはよかった、安心しました。あの時のあなたは、見ている方が痛いほどに弱り切っていましたからね」
「――謁見……ですか」
「ええ、女王の館に向かう途中の姿を、遠くから拝見しました。その直後にあの騒ぎですから、ずっと心配していたんですよ。何かあったんですね?」
張政の言葉は、質問ではなく確認だった。台与は言葉もなく頷いたが、堰を切ったら流れ出るはずだった想いは喉で詰まり出てこなかった。色々なことがありすぎて、何が夢で何が現なのか、急にその境目が揺れ始めた気がした。
急に暗闇の中に放り出されたように何もかもがおぼつかなくなった中で、台与は悟った。
(これはわたしが自分で解決しなきゃならないことだ。助けを求められても、張政さんは喜ばない)
台与が黙っているのを見て、張政は無言で小卓に乗った小瓶から酒を注ぎ足した。そして呟いた。
「闘っているんですね。何も言わなくて構いません、ただ覚えておきなさい。最後に残るのは自分だけです。たとえ誰の意向や希望があったとしても、自分の選んだものがその総てです」
目の前に用意された道は二つ。
日巫女に体を明け渡し、この苦難から解き放たれるか。
たとえどれほど辛くても、自分は自分で居続けるために闘うか。
(そんなの、最初から決まってる)
どれほど怖くても辛くても、このからだとこころがあるから感じられる痛みだ。失ってしまえばそれに気付くことすらできなくなるほどの自分の全てを、どうして易々と明け渡せようか。
解決の方法など、すべてを負った自分ですら分からないのに、他人に分かるはずがない。乗り越えるのは自分しかおらず、勝ち取るのも破れるのも自分独りなのだから。
今までのひとに頼るばかりだった浅はかな自分を振り返ると、急にとんでもない羞恥がこみ上げてきた。依存しないと決めたはずなのに、まだ手は救いを求めて宙を彷徨っている――。
「闘います、わたし……。誰のためでもなく、自分のために」
台与は微笑んだ。ただ柔らかいだけだった春の日差しに、刹那真夏の陽光が射し込んだような笑顔だった。
張政はそっと台与の髪に触れ、ゆっくりと撫でた。
「あなたはこのクニの光。ずっとそのままでいてほしい。強くなりましたね。最後に一目会えてよかったです」
台与は目を見開いた。「最後って?」
張政は酒を注いだ器に唇をつけ、しばしの間を挟んで小さく答える。
「明日、我は邪馬台を発ちます。魏からの命で、今後は外交を管理する一大率のもと、戦火の遠い伊都国でこのクニを見守ることになります。あなたと会えるのは今夜が最後でしょう」
台与は衝撃のあまりに声が出なかった。「明日……そんな……」
無言のまま唇を歪めた張政を見て、台与は慌てて身を乗り出した。
「マナシは、マナシはどうなるの? 一緒に行くの?」
予想に反して、張政は重たげに首を振った。その拍子に肩で溜まっていた髪が背中へ流れ落ちた。
「我も言った、一緒に行かないかと。だが、マナシはここへ残ると……ここで、やるべきことがあるから我とは来れないと、はっきり言ったよ。知らぬ間にもう居場所も見つけたようだ」
(やるべきこと……)
大陸や張政の話をするときのマナシの目は、他では見たこともないほど輝いていた。それほど憧れるものを諦めてまで、このクニでやらなければいけないことがあるとは考えられなかった。
(マナシがそれほど大きなものを抱えているの? それは一体何なの……?)
呆然と思いにふける台与の肩を叩いて、張政は立ち上がった。
「さあ、もう帰りなさい。見つかるとまずいのでしょう? マナシに送らせます」
頷いて立ち上がった台与は、しばらく張政を見つめてから自分の右手を差し出した。
「迷いそうになったら、あなたの言葉を思い出して頑張ります。だからいつか……いつかまた、会いましょうね。そのときはわたし、もっともっと大人になっていますから」
洟をすすり上げながら必死で喋る台与に心底嬉しそうな笑顔を向けて、張政は小さな手をそっと握り返した。
「ええ、きっと、また。そのときのあなたの成長を、楽しみにしていますよ」
彼の手は力強くまた暖かく。
台与は、一生このぬくもりを忘れないと心に誓った。
第三章 総羽 終




