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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第三章 総羽
23/67

23.賓の館へ

 幸い誰にも見とがめられることなく東の館に戻った台与は、結局寝付かれぬまま、早々にやってきた迎えの者に応じて帰ることになった。その迎えの中に掖邪狗の姿はなく、気が抜けた台与は一つ大きく息を吐き出した。

「来てない……」

「あら本当、妙なところで遠慮するのねあの男は」

 いつの間に来ていたのか、台与のすぐ後ろで総羽が呟いた。台与は仰天して飛び上がり、ずれ落ちかけた襲を慌てて直した。今はこの舘に運ばれて来たとき、つまりは日巫女との謁見の際に着た衣と同じものを身につけている。ただ肘や裳裾に継ぎ目があり、階段から落ちた際にひどく破いたのだろうということが見て取れた。

「総羽さん……本当にありがとうございました」

「ふふん、これで貸しが増えたわね。私が女王になったあかつきには、まとめて返してもらうわよ」

 得意げに見下ろしてくる総羽に、台与は眉をひそめて言い返した。

「まとめてって……他に借りた覚えないですけどね?」

「へえ、夜中に屋敷を抜け出す巫女崩れがよく言うわね」

「!」

 台与がまばたきもできずに吸った息を凍らせると、総羽はにっこりと可愛らしく笑って手を振った。

「用があったらまた来るといいわ。さようなら」


 西の館に帰った台与は、菜於をはじめとする主人思いの従者達に手厚く(泣き叫ぶ彼女たちに次々と飛びつかれもみくちゃにされながら)迎えられ、しばらくは療養も兼ねてのんびりとした日々を過ごした。歩くと疲れるからあまり動きたくないと言ったせいで、傍らにはつねに多数の婢が付き従いほとんど寝たきりのような状態にされてしまったが、それも台与の計算のうちだった。

(次の満月……それまでは我慢できる)

 台与が動けないと思いこんでいる菜於は、台与を監視することはしなくなった。鬱陶しいほどつきまとう婢たちも夜中だけはいない。そしてそれが台与にとって唯一の隙になる。

 日々夜更けに窓からのぞくこがね色の月を見つめながら、台与は指折り数えた。

(月が満ちていく……もう少し、もう少しだ)


 そして、その月は昇った。


 静寂しじまに支配された闇の中を、台与は手探りで壁伝いに歩いた。階を降りるときに危うく足を踏み外しそうになったが、手近の柱に掴まって難なきを得た。

(あぶないあぶない……また転んで死にかけるなんて冗談じゃないわ)

 緊張の間に隠れていた高揚感がふいにあふれ出し、台与は小さく忍び笑いを漏らしながら厨へ入った。くず入れの中から木ぎれと、その近くで石包丁らしきものを探り当てた台与は、それらを持ってそっと表へ忍び出る。

 舘の中の闇とは違い、表は月が降り注ぐ柔らかな光でほのかに輝いていた。

(満天の夜空、明日は晴れね!)

 弾むような足取りで西の邑を駆け抜ける台与の目に、濃い緑の林が大きく映ってくる。もっとも夜は黒い小山のようにしか見えないが、木々の葉擦れの音が台与を導くようにざわめいていた。

 あっさりと林の入り口までたどり着いた台与は、誰もいないことを確認して土の上にへたり込んだ。緊張からか息が上がって、額が汗で湿ってしまっている。

 おもむろに帯に忍ばせていた石包丁を取り出し、広がった衣の裾を何度も打つようにして破り引き裂いた。長い裾は邪魔なだけで、歩いたり走ったりするには適さないのを身をもって知っていた台与は、まずこの邪魔なものをどうにかしようと考えていたのだった。せっかく苦労して手に入れた貫頭衣はこの間の一件で菜於に取り上げられてしまったためにこうするほかない。

 無様な形に破れた裾をはたいて立ち上がった台与は、息を整えて木にもたれかかった。心臓の鼓動がまだ煩く響くのは、きっともう一度張政と会えるからだ。全てを見通す彼の目が、今の台与を見て一体何を捉えるのか――それが知りたかった。

(マナシ……ちゃんと来てくれるよね)

 この間の夜に彼と話して、台与は何故か彼に対しての不信感をほとんど拭い去ってしまった。それほど多くのことを話した覚えはないが、その彼の様子や声の調子にかいま見えるものが台与の心を引きつけた。横柄で強引で、子供のような言い訳をして、それが通じると信じ切っている。そのくせ屈託のない、不思議な若者。

(マナシが持つ業って何だろう……マナシ自身はそれに気付いているのかな)

 自分で動き始めたばかりだと張政は言っていた。

 だとすれば、マナシは何かをするために、ここへ――?

「おい」

 声をかけられて、台与は目の前にマナシがいることにやっと気付いた。

 憮然とした表情で自分を見下ろすマナシを見て、台与は考えていたことを誤魔化すように頭を掻いた。

「あ、えへへ、来てくれたんだ。信じてたよ」

「……お前、そんな簡単に男を信じるものじゃないぞ」

 呆れきった表情で大きく息を吐いてからマナシはさっときびすを返す。

 台与は慌てて身を起こしてそのあとに従った。


「張政さん、元気してる?」

 林沿いを真っ直ぐ歩きながら台与は先を行くマナシに問いかけた。マナシの足は速く、台与の歩幅では到底追いつけそうにないため、少しでもその速さを削ごうと思っての問いだったのだが、そのもくろみは脆くも失敗に終わり、マナシは振り返ることさえせずに答えた。

「ああ、会えば分かるだろ。元気も元気、毎日そこら中うろつき回ってるよ」

「そ、そう。ねえ、マナシは、どうして張政さんについて行こうと思ったの?」

 今度の問いは、見事に成功した。マナシは急に足を止めて振り返り、うきうきと弾んだ口調で答えたのだ。

「大陸の事が知りたかったからだ。あいつについていれば、色々なことが解ると思ったんだ。あいつはすごいよ、本当に莫大な知識を持ってるし、俺なんか考えも及ばないほど頭がいい。天才って言うのはああいうののことを言うんだろうな」

 目を輝かせて語る様子は、まるで父親の自慢をする小さな子供。途端に隣に来てゆっくり歩き出したマナシの豹変に、台与は思わず吹き出した。「本当にね」

「ただ……」

 ふいに真剣な瞳で前を見据えたマナシにつられて台与は首を巡らせた。遠くぽつりと一つだけ、浮かぶような舘の灯りが見える。あれがきっと張政のいる賓の館なのだろう。

 それに気を取られていた台与は、マナシが小さく呟いた言葉を聞き逃した。

「あいつは勘もいいんだ、……だから怖い」

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