22.望月夜の約束
台与は夜中に目を覚ました。
(明日には西の館へ帰らなくちゃいけない。そうしたらきっとまた一人にはなれないだろうな……)
それを考えると、この東の館にいられる時間を無駄に過ごしたくなかった。そんな思いが作用してか、ふいに何の余韻もなく完全に覚醒してしまったのだ。何度か褥の中で寝返りを打ってみたが寝られそうもなかったので、台与は暗闇の中起きあがった。
(散歩くらいなら、行ってもいいかな)
台与は窓から手を伸ばして月光の明るさを確かめたあと、階を降りて外に出た。
漆黒と群青がせめぎ合う中天に半円形の月がぽっかりと浮かんでいる。澄んだ空にまたたく星は数えきれず、それをひとつひとつ見ていくだけでも夜が明けそうだった。
(なんて広いんだろう……この空は一体、どこまで続いているのかな)
どこまで行っても、見えるのは同じ空なのだろうか。この邪馬台の外、倭の国の果て、見知らぬ大陸の果て……どこまでもこの空は続くのだろうか。
そんなことを考えた台与は、ふいに日巫女の思いが理解できた気がした。
(日巫女はこのクニを――倭を一つにしたいんだ。それが彼女の願いだから、それをするまでは死ねないと)
それが良いことなのかは台与には分からなかった。ただ、その思いは決してどこまでも真っ直ぐなものではないということを知っている。日巫女は器を乗り換えながらこの国を治め、絶対の権力を手に入れようとしている。自分のような霊力を持つ者は大陸にもいないと知っている彼女は、いつかはきっと海の外へもその力を伸ばそうとするだろう。
(それはだめだ……これ以上倭のクニを乱してはだめだ。総羽さんはこれを阻止したいんだ)
台与は唇を噛み、ぐっと拳を握りしめた。
(好きにはさせない……!)
「誰だ!」
中天を睨み付けていた台与は、背後の気配に全く気付かなかった。
そのため男の声が間近でしたときには、ひっと息を詰めて飛び上がった。
「わ、わたし……あやしいものじゃない。この館の」
「……その声」
男は何かにひかれるように近づいてきて、台与がぎょっと驚くほど近くに顔を寄せた。
静かに降り注ぐ月光が、ゆっくりと時間をかけて闇の帳を一枚一枚はがしてゆく。身をかばいながら後ずさっていた台与は、やっと男の顔を認識することができて声を上げた。
「マナシ! マナシじゃないの」
「やっぱりお前か。こんな時間にこんな所で何しているんだ、まったく変なところでよく会うな」
訝しげに首を傾げながらもどこか気を許したように小さく笑うマナシを見て、台与は息を吐きだした。闇の中から突然出てこられて驚いたのはこちらのほうだ。
微かな月の光ではその曖昧な輪郭しか捉えることは出来ないが、マナシは以前とあまり変わりないようだった。相変わらず小汚い苧麻の肩衣を着て、髪は無造作に束ねただけの全くの奴の格好。張政の付人としてならもっとましな服装が出来そうなものなのに、何故か彼はわざと粗末なものを選んで着ているようだった。
「お前、東の館の婢だったのか。こんな時間にどこへ行く気だ? まさかまた逃げ出すんじゃないだろうな」
「え?」
台与は眉根を寄せて頓狂な声を上げたが、マナシが自分の正体を知らないということにやっと気付いて納得した。彼が知っているのは、林の中で泣き崩れていた婢の姿の台与だけなのだ。
今はあのときほど粗末な衣ではないが、この暗闇では身なりなど目には入らないのかもしれない。
「えーと……ああ、うん、そう。別に用はないけど、散歩でもしようかなって」
「変なヤツ、子供のくせに」
馬鹿にしたように笑われて、むっとした台与は上背のあるマナシを睨んだ。
「そういうあなたこそ、ここで何してるの。使者の館は西の方でしょう」
マナシはふいと横を向いて答える。「散歩だよ。まだこの邑の全部を回ったことはなかったからな」
(いくらなんでも普通こんな時間にそれはないでしょう……)
呆れて台与はため息をついた。彼の答えを鵜呑みにするにはどうも不審なことが多すぎるが、それでも気にしないことにした。不審といえば台与だって十分不審なことをしているので、これで帳消しにしようと思ったのだ。
「散歩なら一緒に歩かない? わたし一度あなたと話してみたいと思ってたの」
人気のない東の集落を抜けて林の入り口までやってきた台与とマナシは、休憩がてら茂みの奥に倒れている樫に腰掛けた。これ以上林の中まで行くと、とてもじゃないが帰れそうになかったからだ。
「思い出すなあ、張政さんに林の奥の草原まで連れて行ってもらったこと。そんな昔の事じゃないのにね」
まだ一月も経ってはいないのにひどく記憶が薄れて感じるのは、きっとそれからあまりにも多くのことがありすぎたからだ。張政さんの顔が思い出せないと台与が呟くと、マナシは腹を抱えて笑い出した。
「お前、いくら張政の顔が淡泊だからってそれはないだろう。あいつはお前のこと時々話すぞ」
「そんなつもりで言ったんじゃないけど……え? 張政さんがわたしのことを?」
台与は興味を引かれてマナシを見つめた。その視線に気付いたのか、にやりと笑ってマナシは答える。
「ああ、あいつはああ見えて結構女好きで。若い子なら見境がないっていうか」
「もう! ふざけないでよっ、張政さんがそんな人なわけないでしょう。親切に若菜のある場所まで連れて行ってくれて、帰りだって送ってくれたわ。色々相談にも乗ってくれたし、あなたのことだって心配なさってたわよ」
憤慨して台与が叫ぶと、マナシは意外なものでも見るような目で振り返った。
「お前……あいつと何を話した? ――何か聞いたのか」
その目には言葉以上の力がこもっていて、気圧された台与は戸惑いながら首を振った。
「何も……。ただあなたと草原で出会ったってことと、あなたの名前を彼がつけたということと……そう、あなたの運命がとっても重いっていうこと……」
そしてわたしの運命も。
「あのおしゃべりめ」
小さく舌打ちしてマナシは足を組み替えた。「妙に予言じみたことを言うんだよな、あいつは。大陸の知識はいくら聞いても聞き足りないくらいだけど、あの胡散臭い人格分析はやめてほしいぜ」
軽く受け流したようにマナシは笑ったが、台与にはそれがどこか焦った仕草に見えた。
「そういや、あいつはお前にもう一度会いたいって言ってたな」
思いもかけない事をマナシの口から聞いた台与は、目を瞠いた。
「それ、本当? わたしも会いたい!」
マナシに飛びつくような格好で捲し立てる。「会いたいの、連れていって!」
張政ならきっと、この背水の打開策を見つけられるかもしれない。もし見つからなくても、今度こそちゃんと、張政によって手に入れることができた自分の決意と勇気を、立ち向かう意志を、伝えたい。
台与の意気込みに驚いたのか、マナシは倒木から腰を浮かして後退った。
「わ、わかった伝えておく。でも今は駄目だ、もうすぐ夜が明ける」
「あ……」
日巫女の舘のある丘の向こうが少しずつ白み始めていた。
それを目にして、台与は何故あの場所に日巫女が館を作ったのかを悟った。日の昇る最も高みに君臨するのは日の神の妻である女王しかいないから――
ぞっとした。あの氷のような「日神の妻」は、閉ざされた神殿で他の男と平然と契りを交わしている。昼も夜もないあの暗闇、背の君である太陽の光を遮断したあの密室で、さも当然のように禁忌を犯している。
(巫女なんかじゃない、あの人は……!)
急に俯いて小さく震えだした台与を見て、マナシは訝しげに眉を寄せた。
「どうした、寒いのか? ……もう帰ろう、人が起き出したら面倒だ」
マナシに強く手を引かれ、台与は立ち上がった。握られた手がとても暖かく感じて少し安心した。
無意識のうちにその手を握り返しながら、台与は小さな声で訊ねた。
「張政さんに会いたいの。次の満月の夜、林の西側で待ってるから迎えに来て」
「西の?」
「そう、西」
西の林なら台与の舘からもそう遠くはない。うまく抜け出せば、夜明けまでには賓の館を往復して帰れるはずだった。
「待ってるから……」
その今にも消えそうな響きに抗いがたい何かを感じ、マナシは小さく頷いた。




