2.掖邪狗の帰還
「菜於、早く来ないと置いていくよー!」
「お待ち下さいませ、姫様! あぶのうございます!」
従婢の菜於が必死の形相で叫んでいるが、台与もまた必死だった。ねだって着せてもらった真新しい倭文の衣を膝の上までたくしあげ、色づき始めたばかりの草花をかきわけて丘を駆けあがる。今日は実に久しぶりの休日で、邑の外に出るのなどは一年ぶりだった。はしゃぐなと言うほうが無理なのだ。
おまけに、今日は彼女にとって、これ以上はないくらい大事な日だった。
「姫様っ、お待ち下さいってば!」
菜於が息を切らしながら懸命に追いすがるが、台与は到底待つつもりなどない。
(待ってなんていられるものか。だって、今日は、やっと……)
「!」
緩やかにくだる丘の向こうに、早くも出迎えの村人たちに囲まれた一群が見える。それを目に留めた瞬間、台与は栗が弾けるように大きく飛び跳ね、一目散に坂道を駈け下りた。
「ヤヤ……うあ!」
力いっぱい裳裾を踏んづけて、救いようもないほど派手に台与は転んだ。同時に目先の隊列から見かねたような悲鳴が上がる。威勢が良すぎたせいで、長い裳に包まれた小さな身体は、ごろごろと緩やかな丘をそれこそ珠のように転がった。遠くで菜於の叫び声が聞こえたが、どうすることもできなかった。
草花まみれになりながらどうにか丘を下りきった台与をふわりと抱きとめたのは、台与が求めて駆けたそのひとだった。
「ヤヤコ! お帰り――!」
間近に顔があるにも関わらず、台与は大声で叫んだ。それほどに嬉しくてたまらなかった。
満面に笑みを浮かべた青年が、威勢良く答える。
「はい、姫様、ただいま帰りました!」
「ヤヤコだー! 本当に本当に本物の、ヤヤコだ!」
「お久しゅうございます、姫様。お変わりございませんようで、本当に良かった」
しがみついたままの台与の髪を撫でながら、青年が朗らかに笑う。
台与はがばりと顔をあげて、食いかかるように叫んだ。
「本当だよ! すっごい、長かったよ! ひととせもヤヤコがいないと、退屈で死にそうだった!」
「まあ姫様、そんなこと。しょっちゅうお元気にお館を抜け出されていましたのに」
いつのまにか背後に控えていた菜於が茶々を入れる。慌てた台与が振り返るのをくすくす笑って見ていた菜於は、ふいに敬虔な眼差しで青年を見た。
「よくご無事でお帰りなさいました、掖邪狗さま」
「ああ、ありがとう」
台与はじっと二人を見つめた。膨らんだ気持ちが少しずつ萎んでゆくような感触を覚えて不思議に思う。自分と三つしか違わないくせに、こういう時の菜於はとても大人びて見える。それが何故なのか、台与には理解できなかった。
不可解な気持ちを紛らわすために、台与はひときわ大きな声で訊ねた。
「ねえヤヤコ、またわたしとずっと一緒でしょ? 一緒に遊べるよね!」
ヤヤコというのは、台与だけの呼び名だった。青年の名は掖邪狗といい、大人と呼ばれる数少ない貴人の身分を持つ。その中でも、十八という異例の若さでありながら、使節として大陸へ渡ったほどの実力者で、そして今日やっと、その大陸から1年ぶりに邪馬台へ帰ってきたのだった。
「ええ、また遊びましょう。魏の国で見てきた色々なお話もお聞かせしますよ」
期待通りの掖邪狗の返事に、台与は満足して歓声をあげた。
日巫女の一族、特に日巫女の実弟にあたる首長の采迦から多大な信頼を受けている掖邪狗は、自然とその娘にあたる台与との関わりも増え、いつのまにか恰好の遊び相手になっていた。男性と関わるのを極力避けなければいけない深窓の巫女姫にとっては、彼はなくてはならない唯一の兄代わりの存在だった。
「また姫様のお守りですね、掖邪狗さま?」
からかい含みの菜於の言葉に憤慨した台与が大声で言い返す。
「わたし、もう九歳だよ、立派なオトナだよ!」
どっと隊列が笑い崩れた。何を笑われたのか見当が付かない台与は、真っ赤になって膨れ上がった。
拗ねてうずくまった台与をなだめすかしながら、菜於は小さくわらった。
「オトナでしたら、このようなところにはおられませんよ、姫様。なんたって大事な大事な巫女姫様ですもの」