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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第三章 総羽
19/67

19.総羽の館

“私があの女を邪馬台から追い出してやる”

 わたしは一人、立っていた。

 何もない世界――虚空を仰ぐ。

 上も下もない、一面の闇だった。

 闇はわたしをゆっくりと飲み込もうとする。

 わたしは闇を抱きしめる。

 ――行かせない。

 たとえわたしのこの身に代えたって。

 外に出すものか。


 虚空にひらめく、ひとひらの光。

 呼んでいる。誰が?

 誰の名を呼んでいる……?


 “台与!”


 トヨ――「わたし」だ。



 最初に飛び込んできたのは、鮮やかな茜色だった。

 朝靄の抜けた太陽を直視したときのように、目の奥が痛くて眩しくて残像がよぎる。ぎゅっと目を閉じてそれが行き過ぎるのを待ってから、もう一度、今度はゆっくりと瞼を持ち上げる。

 白い光を受けた天井がぼんやりと見えた。ああ、もう朝かと思って窓のほうへ首を巡らそうとするが、なぜか思うように動かない。もどかしさで思わず声が出た。

「……んん」

 奇妙な気分だった。どことなくいつもの目覚めとは少し違う気がして、夕べのことを思い出そうとしてみる。しかし何一つ思い出せることはなく、頭の中は空っぽのようでそれでいて飽和のようで。

 とにかく何かをハッキリさせたい一心でもう一度身動きする。

「んー」

「台与?」

 間抜けに呻いた声に答えるものがあって、驚く。そして一つ思い出した。

 ああそうだ、自分は台与というんだ――と。


 最初に目に飛び込んだ茜は、その人が纏う衣の色だった。

 台与は言葉もなくその人物を見つめた。どこかで見た顔、と最初に思って、それから堰が切れたようにどっと記憶の波が押し寄せる。それが誰だかすぐに思い出したが、ますます声は出そうになかった。なぜ目の前にこの人がいるのか理解できなかった。

 燃えさかる炎の色に身を包んだ、可憐な少女。よく見ると白い単衣に茜色の袴を履いていて、漆黒の長い髪は後ろでまとめているのか横たわる台与からは見えない。細面に一段と輝く意志の強そうな瞳……その目を見た瞬間、言いようもない恐怖がふいに台与を襲った。

 急にこわばった台与の顔を見て、少女は紅い唇を固く結んで尖らせた。明らかに機嫌を損ねたようだった。

「何よその顔、気にくわないわね。人が折角看病してやったのに、感謝の一つくらいしたらどうなの」

 にゅっとのびてきた白い手が台与の頬を手加減なしでつねり上げる。丹塗りの爪はするどく尖っていて、台与は悲鳴を上げた。「い、いひゃい、いひゃいでふっ」

「ほら、私が誰に見えるって言うのよ、言ってごらん」

「あ……あげはひゃん」

 頬を抓られながら台与は半泣きで名を呼んだ。まだどこか半信半疑ながらも、その手が不思議と安心できるのは、懐かしいその人に違いないという希望があったから。

「そうよ。これで忘れてたらどついてやるところだったわ」

 最後にその頬を伸びるところまで伸ばしてから、総羽は台与から手を離した。久々に会う少女は、一年前よりもまた美しくなっているようだった。きつかった目元はいつの間にか少しだけ和らぎを覚えていて、これで常に山形の唇が逆に曲がれば、それはさぞかし花もほころぶ可憐さだろう。相変わらず手加減と容赦は知らないようだったが、病み上がりでいきなり乱暴を働かれたことよりも、懐かしい彼女に会えたことの方が台与にとっては重要だった。

「総羽さんがどうしてここに? わたし一体……」

 呟いた台与を呆れたように見下ろして、総羽は手に持っていた枝葉の束をばっさと台与の顔に押しつけた。

「ぶっは! 何する……」

 いわれもない狼藉を働かれたことに文句を言おうとした台与は、その枝に目を止めた。

(玉箒の枝……魂招いに使う枝だ……)

 細い枝に青緑の硝子玉をいくつも連ねた玉箒を手先で弄びながら、総羽はふんと顔を逸らした。

「死にかけるならもう少しましなところで死にかけてよ。私の館であんたに死なれたら寝覚めが悪いじゃないの。あんたが運ばれてきたときは何の冗談かと思ったわ」

 よく見ると総羽の髪は前髪やこめかみのあたりがほつれ、頬に描いた儀式の際の朱も落ちかけて掠れている。

(もしかして、ここでずっと招魂舞たまよばいのまいを舞っててくれたの? わたしのために……?)

 最初は頬の筋肉が上手く動かなかったが、思い切り抓られ引っ張られたことで少し解れてきたらしく、台与は嬉しくなって微笑んだ。その顔を見た総羽は呆れたように肩をすくめ、ぼやく。

「何を笑っているのよ、自分がどんな状況だったかも知らないで。ついでだから言うけど私も相当疲れてるのよ、へらへらしないでちょうだい」

「え……? わたし、一体……」

 体を起こそうと台与は腕を伸ばしたが、少し浮かしたところで間もなくぱたりと褥の上に落ちた。知らない間に腕に出来ているあちこちの擦り傷から緩慢な痛みを感じるばかりか、上半身にまるで力が入らない。それは足も腰も同じで、立ち上がることさえできない状態になっていた。

(……どうして……?)

 呆然と動かない腕を見つめる台与に、総羽は抑揚を抑えた声で囁いた。

「日巫女様の館に謁見に行ったのよ、あんたは」

 総羽が口にした言葉を理解した、その瞬間に台与の全身に痺れが走った。

 その名は――聞きたくない。

 真冬に水をかぶったあとのように、突然頭が痛み始めた。

 がんがんと鳴り響く耳鳴りに混じって聞こえる、あの『声』。


“そなたはまさにわらわのための娘……わらわのものじゃ……”


「あ、……あ」

 嗚咽のような甲高い声を漏らして震え始めた台与を見て、総羽は瞠目した。

「台与?」

「わたし―――わたし……生きている……?」

「当然でしょう、何のために私が苦労したと思ってるの」

 不機嫌な口調で総羽は経緯を語った。「三日前、ちょうど掖邪狗のもてなしでいなかった衛士の代わりに、近くにいた男が大門の奥で倒れてるあんたを発見して、うちに運び込んできたのよ。顔は土色で息してないし、最初は死んでいるんだと思ったわ。打ったり叩いたり必死で蘇生させたのはいいけど、今度は何日も目を覚まさないし。呪詞の唱えすぎでもう喉もカラカラよ」

 台与は驚いて目を見開いた。実際総羽の声にはいつもの張りがなく、掠れ気味だった。三日も歌い舞い続けたのならそれも当然のことだろう。台与は唇を噛んで泣きそうな声を零した。

「ごめんなさい、総羽さん……迷惑ばかりかけてごめんなさい」

「誰も謝ってほしいなんて言ってないわ、私は感謝をしてほしいのよ」

 相変わらず冷たい口調だったが、総羽の目には労りがこもっていた。

 今の彼女になら、台与は自分が抱える全てのことを話しても構わないような気がしていた。たとえそれでどれほど罵倒されても侮辱されても、悔いは残らないだろう。

「総羽さん……聞いてくれますか」

 台与は話し始めた。自分の身に起こった、信じがたい程の恐ろしい話を。

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