17.うつつ
声が聞こえた気がして、彼は振り返った。
「クナヒコ」
もう一度、今度は確かに呼ばれた。
訝しげにあたりを見回した彼の前に、藪を掻き分けて現れる一人の男。
「トウマ」
驚きを隠しきれずに彼は息を呑んだ。懐かしいとも思えるような姿が目の前にあることが、信じがたかった。
男はため息と共に口を開く。
「探したぞ。よもやこんな所まで来ているとはな」
「何故来た!? 来るなと言ったはずだ」
険しい口調で歩み寄った彼に、男は睨み付けるような視線をよこした。やたら厳つい顔に険しさを加える切れ長の目は、睨めるだけで虫でも殺せそうなほど強い眼光を放っていた。
「そんなことが言える立場か。クニがどうなってるか分かってるのか?」
「……分かっている、だからここへ来たんだ」
彼は揺るぎのない視線を男に返したが、男は取り合う様子はない。
「クニのためを思うなら、今すぐ帰れ。俺はそれだけのためにここまで来たんだぞ、お前には本当にやるべきことがあるだろう!」
「……断る」
彼は後退った。力では勝てるはずのないこの男と争いたくはなかった。
「あと少しで全てが終わる。終われば帰る」
「我が儘もいい加減にしろよ、クナヒコ」
子供をあやすようなその口調に、彼はかっとなって怒鳴った。
「俺がいつ我が儘を言った! 言われるがままにおとなしくしてやっていた、その結果があれだ! むざむざあの事態を見過ごしたお前にとやかく言われる筋合いはない。戻って欲しいなら俺のやることを黙って見ていろ!」
男は目を見開いて、しばらくしてから思い出したように眉をひそめた。
「……『ヒコミコ』さまの……命令でもか」
「――俺に命じる権利があるならな」
挑むように見上げた彼の視線を受け取って、男は最後の頼みの綱を引いた。
「キクチヒコの懇願でもか」
「キクチヒコ……」
彼は反芻によってその懐かしい面影を描いた。幼い頃からともにいた、最大の信頼を捧げる人物の名。だがそれも、彼の決意を曲げるには至らなかった。
「キクチヒコにはもう少し辛抱してもらおう。心配するなと伝えてくれ、春には帰る」
「……どうしてもやるのか」
「やる」
しばしの沈黙のあと、男は立派に蓄えた顎髭の隙間から微かにため息をもらした。
「仕方がない、了承しよう。キクチヒコに伝えるのは気が重いが……他でもないクナヒコの意地だからな、分かってくれるだろう」
「恩にきる! トウマ」
快活に笑った彼を戒めるように、男は声を低くした。
「だが、やるというなら失敗は許されない。そして最後まで徹底しろ」
笑顔を曇らせ、訝しげに眉を寄せた彼に男は囁く―――
「後継者を殺せ。このクニなら間違いなく次も女王だ、血統を絶やせ」
林を揺らして、風が行き過ぎる。
このクニの運命を左右する密談がここで行われていようとは、誰一人として知り得るはずもなかった。




