13.なくしたもの
「失礼いたします、掖邪狗様ご到着です」
台与ははっと我にかえり、顔を上げた。――ついに来た。
台与を囲む婢たちはじっと最後の検分をしていた。そして文句の付けようがないことを確認して、笑顔で礼をした。
「佳き日をお祝い申し上げます、我らが巫女様。どうか日の神が、姫様に寿ぎをお与え下さいますよう、心より願っております」
「……ありがとう」
次々に婢たちが退出し、最後に残った菜於は手にした紗の襲をそっと台与の頭にかぶせた。
「館までは、この襲を決してお取りにならないでくださいね、顔を見られることは巫女として恥ずべき事ですから」
台与は素直にこくりと頷いた。そうでなくてもこんな顔他人に見せられたものではない。
「……頑張って、下さいね。祈ることしかできないのが悔しいけど、姫様なら絶対大丈夫です」
それは菜於の心からの言葉だった。台与は何か言おうと口を開いたが、すぐに閉じた。
だめだった。今ここで口を開けばきっと、嗚咽しか出てこない。行きたくないと泣きわめいて菜於を困らせたくない。ここまでの全てを台無しにするわけにはいかない……
だから、黙っている。
羅の帳をかき上げて菜於が静かに退室していったあと、台与はこらえきれず口元を押さえた。
涙にならない、声にもならない。けれど耐えられなかった。もう一本線が切れたなら、自分が大声で泣き叫ぶことが目に見えていた。張りつめたその線を、今は守るしかない。言いたくてそれでも誰にも言えずにあの秘密を押し隠してきたように、この恐怖を顔に出してはいけない。
身を震わせてうずくまった台与の耳に、聞き慣れた声が届く。
「姫様、入ってもよろしいですか?」
掖邪狗の声だった。
(こんな醜態、ヤヤコには見せたくない……)
必死の思いで立ち上がり、台与は顔色を隠すために襲を鼻の下まで引き下ろした。
「どうぞ」
声がかすれて上手く出ない。この土壇場でなんということだろう、まだ覚悟が決まらないとは。
掖邪狗は滑るように部屋に入り、台与との間を五歩くらい空けて跪いた。元々細身の掖邪狗が白い衣と袴を身につけ、耳の横で結った鬟に白布を被せて整えた様子は、一見するとどこかの覡のようだった。
「今日の嘉き日を心よりお喜び申し上げます」
「ありがとうございま……」
す、と最後の一言を送り出そうとしたところで、突如世界が波紋のように揺れ始めた。必死で装った平静も全て水泡と化し、台与は部屋の壁までふらついた足で後退り崩れ落ちた。
「姫!」
掖邪狗が立ち上がり、駆け寄ってくる気配があった。それすら蜃気楼のようにおぼつかない程の激しい眩暈に翻弄されながら、台与は我知らずその手にすがりついていた。
(なんて情けない姿……わたしは、どれだけ弱いんだろう)
吐き気は容赦なく襲ってくるが、夕べから何も口にしていないせいで胃の腑は空だった。吐き出す物がないほうが余計に苦しいということを、台与はこの時初めて知った。
「姫、しっかりなさってください! じっとそのまま……動かないで」
そこでようやく自分をのぞき込む掖邪狗と目が合った。そういえばあの夜以来だったのだと今更気付く。
間近で見る掖邪狗の顔には、あの夜のような苦い戸惑いの色はなかった。ただ驚きと狼狽、そして優しいいたわりの表情があり、それが嬉しくて、台与は息苦しさに目尻を滲ませながらも微笑んだ。
「……大丈夫、少し、楽になったから。ありがとう、ヤヤコ……」
「姫、顔色が……」
眉をひそめたまま、掖邪狗の手がそっと台与の頬に触れる。
そして彼が突然打ちひしがれたような表情を見せたかと思うと、そのときには台与は彼の腕の中にいた。
(――――…?)
現状を理解するのに、とても時間がかかった。それは眩暈の後遺症のせいでもあったし、突然視界から掖邪狗の顔が消えたせいでもあった。
「ヤヤコ……?」
「姫……何故」
耳元で突然囁かれ、触れる熱い息に台与は身を竦ませた。
「辛いなら何故、何も言って下さらない! ものも食べられないほど気に病んでおられるなら、何故もっと早く相談して下さらなかった。あなたは昔から、何もかも独りで胸の内に閉じこめてしまう。だから私は」
「ご、ごめんね、わたしヤヤコにいつも心配かけて……」
慌てて口を挟んで、台与は自分がずっと言いたかったことを思い出した。
「あの、あの日の夜……変なこと言ってしまってごめんなさい。忘れてくれていいの、迷惑だって分かってるのに、ごめんなさ……」
突然息もつけないような力で抱きすくめられて、台与は仰天した。
あまりにその力が強くて、そのあとの言葉を続けることが出来なかった。
忘れろと言われて忘れられるものなら、きっと今こんな気持ちにはならない。
とにかくそれ以上の言葉を聞きたくなかった。そしてこの心がどれほど揺さぶられているか、何も知らない少女に解らせてやりたかった。
生まれたときから妹のように慈しんできた、十も年下の幼い姫。その愛情は実の兄妹にも劣らないと思えるほどだった。だが――いつからだろう、その真っ白な慈愛に別のものが混じり始めたのは。
穢れのない幼い少女の笑顔。だがその微笑の影に時々浮かぶ底知れない憂いに気付いたとき、掖邪狗は少女に対する自分の想いの深さを知った。
(決して口にしてはいけない、ただ側で見守っていられるなら)
それは彼が神に立てた一つの誓いだった。
その決意を揺るがすようなことを、これ以上耳にすることは許されなかった。
(この腕の中にいるのが、普通の村の少女だったら。婢だったら。何でもいい、日巫女の血を引いてさえいなければ……どんなことをしてでも、きっと手に入れた! ……けれど)
少女は紛れもない純血の巫女姫で、邪馬台を導く太陽の一族。
倒れた台与の顔を見たときに驚いたのは、あまりにその面差しが儚く人間離れして見えたからだった。色を成さない肌の上に描かれた血の刺青に較べれば、その瞳は暗く澱んで虚ろだった。まるで、神懸った巫女のように――
どんなに想っても、それは禁じられたものに他ならない。
見守るだけでいい。
この一生かけて、彼女が作り出す流れの傍らに在れるのならば。
そして掖邪狗は、その手で台与を引き離した。
「ヤヤコ?」
きょとんと台与が見返してくる。その澄んだ黒い瞳から視線を逸らして跪き、掖邪狗は呟いた。
「失礼をお許し下さい姫、出過ぎた真似を。もう二度と……こんな真似はいたしません」
「え? 出過ぎたなんて、そんなこと」
「あの夜のことも……仰るとおりに……忘れさせていただきます」
「……あ」
台与の声は途中で途切れ、一呼吸の間を空けて震える声がこぼれた。
「うん……わかった。よかった、そのほうが良かったの……」
ああ、と掖邪狗は全身に広がる痛みをこらえて目を閉じた。
(こうして自分の希望のすべてを切り捨てて……私は生きていくのだな)
台与は悟ってしまった。掖邪狗の答えの全てを、その意味するところを。
「驚かせてごめん、もう平気よ」
そして自分でも驚愕するほどの冷静な声がさらりと出た。胸の中の痛みとともに、恐怖や不安や圧迫焦燥――今までのそんなものすら影も形もなくなっていた。台与の心の一部分が欠落したことで、それらは全て消えたのだ。
なくしたものは、他人に依存するという心。与えられる希望。
「案内して、掖邪狗。日巫女様の館へ」
威厳に満ちた声で台与は命じた。掖邪狗は目を瞠り、そして少女の中の変化に気付いて唇を噛んだ。襲ってくる後悔の嵐。紛れもなく、彼女を突き放して断ち切ったのは自分なのだから。
だが、歩き出す。歩き出さなくてはならなかった。日巫女の館へと。
台与は静かに襲を目深に引き下ろし、透ける光に目を細めながら、定められた未来へと続く地面を踏みしめた。
台与の中にあるものは、もはや絶望だけだった。




